(2018年 真宗教団連合「法語カレンダー6月のことば)
今月の法語は親鸞聖人が笠間(現在の茨木県笠間市)の念仏者に出されたお手紙『ご消息(しょうそく)』第6通の中の一文です。
このお手紙に着いて『浄土真宗聖典註釈版(本願寺刊)』には、次のように説明されています。
笠間の門弟の疑問に答えたもので、法語の形をとっている。内容は往生を願うものの中に自力他力の別があることを示して、義なきを義とする本願他力の趣を明らかにし、信心の行者を讃嘆したもの。
この当時関東の門弟の間に親鸞聖人教えと異なるようなことを説く人がおられたようで、門弟たちの間で疑問を抱く人が多かったようです。
親鸞さまが「阿弥陀さまのはたらきにそのままおまかせすることで必ずお浄土に生まれさせて頂ける、お念仏ひとつですくわれる」と、教えてられても、親鸞さまが関東の地を去り京都に帰られおられなくなってから、後から来た僧侶から「そんなことで往生できるはずはない。阿弥陀さまにおまかせしても阿弥陀仏が喜ばれるような善行を積まないと救われるはずはない!」などときつく言われるとついつい心配になられた門弟がおられたのです。そのようなことが、このお手紙を書かれる背景にあったのではないかと私は思うのです。
今月の法語の一文が出される前の文章を『親鸞聖人御消息現代語版(本願寺刊)』を基にして私なりに要約してみたいと思います。
浄土真宗の教えでは極楽往生を願う人について、他力で浄土に生まれようとする人と自力で浄土に生まれようとする人とがあります。このことはすでに、インドの菩薩さま方をはじめ中国や日本の浄土の教えを広めた祖師方が仰っていることです。
まず自力ということについて、浄土往生を願う行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて自分自身を頼みとして、自分のはからいの心で、身で行うこと、言葉をしゃべること、心に思うこと(身口意の三業)の乱れをとりつくろい立派に振る舞って浄土に往生しようとすることを自力というのです。
また他力ということは、阿弥陀仏の誓願(四十八願)の中で、真実の願として阿弥陀さまが選び取って下さった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。それは、阿弥陀仏がお誓いになられたことですから「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」と法然聖人は仰せになりました。
「義」というのは、はからうという言葉です。さとりを目指す行者のはからいは自力ですから「義」というのです。他力とは本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、まったく「義」はないということです。
ですから、この身が悪いから、阿弥陀仏が迎えとってくださるはずがないと思ってはなりません。凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、自分は悪いものであると知るべきです。また、自らの心がよいから往生することができるはずだと思ってはなりません。自力のはからいでは、真実の浄土に生まれることはできないのです。(下線部が今月の法語)
阿弥陀さまは私のすべてを見通してご本願をたててくださったのです。今のままそのままの私を救うための本願です。今の私に安心を与えるための誓願です。
私が阿弥陀さまのそのはたらきを疑って、何かしなければならないという自分のはからいは一切いらないということです。
阿弥陀さまのはたらきをそのままいただきましょう。
南無阿弥陀仏