(2025年 真宗教団連合「法語カレンダー」5月のことば)
今月の法語は、昨年4月の法語カレンダーの言葉「まことに浄土真宗とは聞法がいのちであった」とお示しくださった近田昭夫師(1931~2018)の言葉です。
先生は真宗大谷派顕真寺の住職をされ大谷派総会所や同朋会館の教導をされておられた方です。
今月の言葉は、2008(平成20)年3月22日に東本願寺春季永代経総経の折に講演された、ご法話の中に出てくる言葉だそうです。
「仏さまというと私たちとかけ離れた尊いお方とお敬い申しあげるけれども、それは尊敬していると言っても、実は敬遠しているだけなのです。生きた仏さまのはたらき、おこころというものが全然わかっていないのです。(中略)実は、仏さまというのは、向こうから私のところへいつも来ているはたらきです。」(下線部が今月の言葉)
近田先生は、阿弥陀さまは、私たちとかけ離れた存在ではなく、何時でも何処でも、私たちに向かってはたらきかけ、一緒にいてくださる方であるとお示しくださいます。
親鸞聖人はお正信偈の中で
「摂取の心光、常に照護したまう。
すでによく無明の闇を破すといえども、
貪愛・瞋憎の雲霧 つねに真実信心の天に覆えり。
たとえば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」
【阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂め取ってお護りくださる。
すでに無明の闇ははれても
貪りや怒りの雲や霧は、いつもまことの信心の空をおおっている。
しかし、たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るくて闇が無いのと同じこ とである。】(『教行信証』現代語版)
と、お示しくださいます。
このように阿弥陀さまは、私たち一人ひとりのことを照らし続けてくださっているという事です。何故、阿弥陀さまは休むことなく照らし続けられるのでしょうか。それは、阿弥陀さまから見たら、私たちは、一瞬も目を離すことができない危うい存在であるという事を表しているに違いありません。
先月も書かせて頂きましたが、私は「煩悩具足の凡夫」であり、「煩悩熾盛の衆生」なのです。ところが、そういう自分のありのままのすがたを教えられても素直に受け入れることのできない私でもあると思います。それこそが「煩悩具足の凡夫」の私のすがたかも知れません。
そして、私は「諸行無常」の世界を生きて、何時どうなるかわからないいのちを生きています。
そうであるからこそ、如来さまは休むことなく常にはたらき続けてくださっているのです。
「あなたのことを放っておくわけにはいきません。いつでも、あなたと一緒です。安心してください」と喚び続けてくださっています。その喚び声が「南無阿弥陀仏」(念仏)です。
阿弥陀さまからは、「必ず救います。私にまかしてください」と喚びかけくださり、私からは、「有難うございます」とお礼申し上げます。
私は忘れていても、如来さまは私のことを片時も忘れることなく私に向かってはたらき続けてくださっているのです。
今月の言葉は、如来さまとは「はたらき」であるとのお示しです。
そのはたらきは「南無阿弥陀仏」です。お念仏です。お念仏称えさせていただく中に、「こんな私のことを放って置くことなしに、大事に大切に思い支え続けてくださる阿弥陀さまがいつも一緒いてくださる」と受け取らさせて頂きたいものです。
皆さまお念仏申しましょう
南無阿弥陀仏