(2025年 真宗教団連合「法語カレンダー」10月のことば)
今月の法語は、京都府立大学の名誉教授であられた西元宗助先生(1909~1990)の言葉です。
2013年4月と2020年8月のカレンダーの法語は、先生の
「念仏もうすところに 立ち上がっていく力が あたえられる」という言葉でした。
以前にも書きましたが、大学生の時に、西元先生の講演を聞かせて頂きました。その時「なんと真面目な先生や!」というのが、私の先生に対する印象でした。その後も何回かお話を聞かせていただく機会がありましたが、仏教に対して、真摯に向き合われているお姿に、温かいものを感じさせて頂いたことです
さて、2013年・2020年の時には、先生の『ここに道あり』(探究社刊 昭和52年)という著述の中の一文を紹介させて頂きました。今回も引用させて頂きます。
【 博多に行った帰り、新幹線の車中で、榎本栄一さんの、かの「ぞうきんの詩」を口ず さむ
ぞうきんは
他のよごれを
いっしょうけんめい拭いて
自分はよごれにまみれている
この詩をなんども口ずさんでいるうちに目がうるんできた。
雑巾は台所や縁側のよごれを拭き清め、自分はその汚れにまみれていく。
……(中略)……
わたしは、この詩をよむまで、ただの一度も雑巾のことを想ったことがない。わたしと いう人間は、胸のポケットの飾り用の白いハンケチを大切にこそすれ、台所の片隅につつ ましくしている雑巾には目もくれず見下してきたのではないか。そしてそのような私であ るのではないか。
しかしこの雑巾こそ、まさしく大慈大悲の法蔵菩薩のおん姿でもあるのではないかと、 思ったとたん、たまらない気持になった。そしてこの詩をお作りくだすった榎本翁を、ひ そかに伏しおがみたい心いっぱいになった。】(『ここに道あり』105頁~107頁)
私が小さい頃、住職である父親が、夜の法座で、何度か幻燈をしていたことがありました。映画館でもそうなのですが、私は、幻灯機や映写機からスクリーンに届く光の筋を見るのが好きでした。何かわかりませんが、そこに浮かび上がる埃を見るのが何故か好きだったことを覚えています。
今月の法語は、一筋の光の中に見える塵に、自分自身を見られた西元先生の言葉であるようです。光が当たらなければ、そこにある姿が見えないのが私たちなのです。
そうですね、暗闇の中では何も見えません。日光でも幻灯機や映写機の光でも、そこに光が差し込んでこそ、塵や埃があることがはっきりと示されるのです。
「ぞうきんの詩」で、今まで何とも思わなかった汚れた雑巾の姿、その汚れは私の煩悩であった、その汚れを拭く雑巾は法蔵菩薩(阿弥陀如来・南無阿弥陀仏)であったと知らされる世界を開いてくださった方(榎本栄一さん)こそ、私を目覚めさせるみ光であったということなのだと思います。
光に照らされてこそ初めて煩悩成就の自分自身の姿に気付かされる私たちです。だからこそ「あなたのことを放っておくことはできない」と何時でも何処でも「あなたのことを絶対捨てません、どうぞ私(阿弥陀)を頼りにしてください」と、私を照らし、よび続け、はたらき続けてくださる阿弥陀さまなのです。
皆さまお念仏申しましょう。
南無阿弥陀仏