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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

〒582-0021 大阪府柏原市国分本町5-6-19

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浄土真宗とは

今月の法話

2025年4月の法話
 「この私のいのちに いつも如来のいのちが 通い続けている」
          (2025年 真宗教団連合「法語カレンダー」4月のことば)
 さて、今月の法語は、滋賀県の浄光寺前住職で本願寺派布教使であられた藤澤量正先生(1923年~2012年)の著された『ほくほく生きる-90歳の法話-』(本願寺出版社刊)の中の言葉です。
 藤澤先生には、今から45年前、京都の伝道院の住職課程第7期を受講させて頂いた折にお世話になりました。私は、先生の布教伝道に対する真摯な厳しい姿勢を拝見し、自分などとはかけ離れた先生のお姿に近づきがたいものを感じたことでした。
 しかし、親鸞聖人のみ教えを間違いなく伝えることの大切さ、難しさを、身をもってお示しくださった先生であり、祖師の言葉とその言葉に込められたお心に対する深い考察をお示し頂いた先生であったと思います。
 さて、今月の法語は、先生の遺稿集となった『ほくほく生きる』の中、「このいのちを考える」という題名で書かれた法話の中の言葉です。
 この法話は、初めに先生の軍隊体験から始まり、戦後学生に復帰して、フランス文学の『チボー家の人々』を読まれて、「自己の生活が罪の中にあるのを見て涙を流す者が真理に近づいている」という言葉に強く惹かれて、その一文をノートにメモされていたことから本題に入られています。
 そして、親鸞聖人の自己告白の姿は、如来のみ光に照らされて明らかになったこと、その聖人が長男である善鸞を義絶されたことの苦悩に思いを馳せられた後、次のように綴られています。(『ほくほく生きる』37頁)

 《思えば、人はその身が順境の中にあるときは、安らぎの日々が持てると思われますが、そのような状態がいつまでも続くとは思われません。しかし、いかに孤独や苦悩の中に身をさらされても、この私から決して離れたもうことのない大悲の中に住まわせられていると知らされれば、いつでも、どこでも、どんなときでも、よろこびの見える人生が開かれるのでありましょう。……中略……
 私もいま親鸞聖人の示寂の年齢に近づいています。そのご命日を迎えて、この私のいのちにいつも如来のいのちが通い続けているという事実を決して忘れてはならないということを、しみじみと思わせられるこの頃であります。》(下線部が今月の法語)

 阿弥陀如来がご本願をたててくださったのは、私の身そのものをすべて引き受け本当の安心を与えるためでありました。親鸞さまは、その阿弥陀さまのみ光に照らされて、ご自身のことを「煩悩具足の凡夫」「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」「邪見驕慢の悪衆生」等々のお示しをされました。
 私もまた同様に「煩悩具足の凡夫」であり「煩悩熾盛の衆生」なのです。しかし、そのことをそのまま受け容れることができているでしょうか。答えは否です。自らの本当の姿に気付くことが少なく、煩悩に振り回されている私です。そうであるからこそ、如来さまは休むことなく常にはたらき続けてくださっているのです。
 私は忘れていても、如来さまは私のことを片時も忘れることなく私に向かってはたらき続けてくださっているのです。
 それが、如来のいのちがいつも私のいのちに通い続けてくださっているという事なのだと思います。ですから、私たちは、縁あるごとに仏法を聞き続けさせていただくことが大切なのです。そして、阿弥陀さまといつも一緒であることを確認するためお念仏申しましょう。
                                    南無阿弥陀仏