(2025年 真宗教団連合「法語カレンダー」9月のことば)
今月の法語は、外松太恵子さん(1939~2022)の言葉です。
外松さんは、青少年問題カウンセラーとして活躍された方で、福岡県いじめ問題対策審議会委員、福岡県「心のふれあい教育相談」推進委員などを歴任された方で、お念仏を喜ばれ、本願寺派(西本願寺)の基幹運動本部専門委員もされておられ宗門内でもご活躍された方でありました。
今月の言葉は、外松先生の著書『心のポケットに~言葉の花束を~』(本願寺出版社刊2002年)の一文だそうです。
今月の言葉を読ませて頂いた時、頭にまず浮かんできましたのは、親鸞聖人が著わされました『お正信偈(正信念仏偈)』にあります「大悲無倦常照我」の一行です。
もう少し詳しく言いますと、お正信偈の終わりに近いところで、源信和尚をお讃えになっておられるところに
「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」
と、お示しくださいます。
現代語文は以下のように示されています。
「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。 わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」【『教行信証』(現代語版 本願寺出版社刊)】
このようにお示しくださいますように、阿弥陀さまという仏さまは何時でも何処でも、私と一緒にいてくださいます。私が阿弥陀さまのことを忘れていようとも、またどんな状態でも絶対に見捨てることなくはたらき続けてくださっているのが阿弥陀さまであるということです。
その阿弥陀さまのおはたらきに気付かされ、一つひとつのいのちをそのまま大切にされ、おはたらきになっている阿弥陀さまのお慈悲に気付かされたとき、外松先生の実感として出てきたのが今月の言葉ではないかと思われます。
特に、大悲のなかに大悲のなかにと、繰り返し表現されることは、自分が煩悩に振り回されて生きていることを悲しみ、そんな自分のことを絶対に捨てないという阿弥陀さまのはたらきを強く表現されたものではないかと思われます。
今、手元に外松太恵子さんの書かれた『悩みのち晴れ-子どもの心に寄りそって-』(本願寺出版社刊 2000年)という書物があります。その中に「何もかもおまかせして」と題された一文があります。
それはある母親からの相談で、息子が三歳の時に、夫の暴力に耐えきれず離婚し、それから十年間、息子に会っていなかったが、元の姑のはからいで会うことができたそうです。以下は先生の文章をそのまま掲載します。
十年ぶりに会ったK君は、母親の背を越すほど大きくなっていたが、顔色が悪く、たくましさや力強さがなかった。
再会から十日後、突然、K君が一人で母親のところにやって来た。そして、
「もうずってここにいたい、十年間の空白を埋めてくれ……」
その日から登校もせず、母親にべったりと、幼児のようについて回り、お布団の中にも入ってくる……と話されました。
来所相談から、約一ヵ月が過ぎました。K君に変化が出てきました。十年間のさびしさが、超スピードで癒されたのでしょうか。
おばあちゃんの家に帰り、登校しました。
ふと、啐啄同時(そったくどうじ)の言葉を思いました
母の子どもを思う心と、子どもが母を恋う心が通じ合って再会した一ヶ月間、
‶愛されている、思われている″という安心の中で、K君が元気になっていく様子を毎日見守りながら、如来さまのお慈悲が、この私にかけられ通しでいるのに、もっと安心して、何もかもおまかせして生きればいいのに‥‥‥。
何と愚かな恥ずかしい私だろう……と思いました。K君のお母様に感謝しました。
あなたのことを絶対捨てません、どうぞ私(阿弥陀)を頼りにしてくださいと、南無阿弥陀仏の声(音)となってはたらき続けてくださる阿弥陀さまのお慈悲のなかにいる私です。阿弥陀さま有難うございます。
南無阿弥陀仏