(2025年 真宗教団連合「法語カレンダー」11月のことば)
今月の法語は、真宗大谷派の僧侶で、大谷大学講師や真宗大谷派の教学研究所所長を務められた仲野良俊先生(1916年~1988年)の言葉です。
1983(昭和58)年11月から翌年の12月にかけて催された研修会(名古屋東別院で開催)の講義録『浄土真宗―往生と不退―』(東本願寺出版刊)の中の一節であるということです。
さて、『歎異抄(たんにしょう)』というお書物があります。西本願寺から現代語版の歎異抄が出版されていますが、その解説には、次のように記されています。
「……本書には著者の名が記されていない。そのため諸説があるが、本文中にその名がみられる唯円房を著者とする説が有力である。
親鸞聖人の在世の頃より、人々の間に、真実の信心と異なる誤った考えが生じていた。本書は、聖人から直接教えをうけた著者が、聖人御往生の後、これらの誤った考えが生じたことを悲歎し同じ念仏の道を歩む人の不審を除くために著したものである。この書に述べられているのは、異端を弾劾するといった冷やかな批判ではなく、真実の信心を見失っていく人々への深い悲しみである。それは、著者自身によって付せられた「歎異抄」という題号からも明らかである。……」(『歎異抄(現代語版)』解説より)
このように『歎異抄』については、上記のように解説されています。この解説には、親鸞聖人の教えを取り違えている人々に対して、弾劾するのではなく、深い悲しみをもって接していく歎異抄作者(おそらく唯円房)の姿があるということが示されています。
それは大切なことだと思います。相手のことを悲しみ嘆くということは、間違いをおかしている人間を批判し退けるのではなく、相手を包み正しい方向へ導き、朋に歩んでいくという態度であり、相手の存在そのものを大切にしているということです。
阿弥陀如来は、十方衆生(生きとし生けるもの・いのちあるものすべて)に対して、お念仏のはたらきをよろこぶ者は、必ず、極楽浄土に生まれさせると誓ってくださっています。阿弥陀さまはすべてのいのちにはたらきかけ続けてくださっているということです。ですから、自分以外のいのちも阿弥陀さまが「必ず救う」とはたらきかけて大切にされおられる‶いのち″なのであるということです。お念仏をよろこぶ者のあり様として、どのいのちもかけがえなく大切ないのちであると受け取ることが正しく基本的なあり様なのだと思います。
しかし、そうはいかないのが私たちです。
親鸞さまが著わされた『一念多念証文』という書物には、
【「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起こり、まさに命が終ろうとするそのときまで止まることもなく、消えることもなく、絶えることもない……】《『一念多念証文』現代語版より》と、お示しくださいます。
それが今の私のあり様だということです。ですから、自分中心でしかものを考えられず、私自身と他の人々を区別し差別し、如来さまのお心からかけ離れた生き様をしているのが私自身であることを示してくださっています。
さて11月の言葉は、このような煩悩だらけの私の口から「お浄土に生れたい」というような言葉が出る筈は無い、しかし、その言葉が出るということは、阿弥陀さまが私に向かって、「あなたを浄土に生まれさせたい」とはたらき続けてくださっているからであることを表された言葉であると思います。
阿弥陀さまに願われた私たち一人ひとりなのです。そのはたらきが「南無阿弥陀仏」のお念仏となって私の口から出てくださいます。
皆さまお念仏申しましょう。
南無阿弥陀仏