(2024年 真宗教団連合「法語カレンダー」11月のことば)
今月の法語は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の勧学さんで、福井県の若狭町にある覚成寺住職であられた内藤知康先生(1945~2022)の言葉です。本願寺出版社刊の『どうなんだろう?親鸞聖人の教えQ&A』に掲載されたものだそうです。
私たちはどうして「南無阿弥陀仏」と、称名念仏するのでしょうか。それより、私自身はどうしてお念仏するようになったのでしょうか。そのことの内容を私にお示しくださっているのが今月の言葉ではないかと思います。
自分がいつごろからお念仏を称えるようになったかはよくわかりません。私が小学校低学年の頃は、夜寝る前に家族の者と、お勤めをしていた時期がありました。その時に、意訳勤行の「しんじんのうた」や「らいはいのうた」などをお勤めしたことはよく覚えていますしお勤めできることが少し自慢でもありました。
その時、お念仏をしていたのだろうと思いますが、お念仏した記憶がないのです。それは、おそらく、その当時「南無阿弥陀仏」を軽視していたのではないかと思うのです。すぐに簡単に口から出る言葉、ただ「ナンマンダブ・ナマ―ンダブツ……」と口に繰り返すだけ、別に何の重みもない、簡単な言葉、意味のない言葉と子供なりに思っていたのかもしれません。ですからお念仏称えることの意味など考えたこともありませんでした。お念仏(名号)がそれほど大切なものであるなどと思いもよらないことでした。
そんな私が、「南無阿弥陀仏」の名号(念仏)の有り難さ、尊さに気付かせて頂くのは、伝道院の住職課程に入らせて頂き、多くの先生方や院生の皆様からお教え頂いたからです。
さて、今月の言葉で内藤先生が示してくださいますように、私の口から声となって出てくださる「念仏」は阿弥陀仏が私のことを必ず救うと誓われてはたらいてくださっている証しであるということです。
阿弥陀さまが、我が名「南無阿弥陀仏」を称えてくれとの願いがあればこそ、数限りないご縁を頂いて、私が念仏申させて頂くようになったということは紛れもない事実だと思います。
中国浄土教の大成者で親鸞さまの尊敬される七高僧のお一人である善導大師(613~681)さまの著された『観経疏 玄義分』には
「南無といふは、すなはちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふ は、すなはちこれその行なり。この義をもってのゆゑに必ず往生を得」
(『浄土真宗聖典(註釈版)』P.169)
《南無というのは、すなわち帰命ということである。またこれは、発願回向の意味でもあ る。阿弥陀仏というのは、すなわち衆生が浄土に往生する行である。南無阿弥陀仏の六字 の名号にはこのようないわれがあるから、必ず往生することができるのである》
(『教行信証現代語版』P.72)
この善導大師のお示しについて、梯實圓先生は『親鸞聖人の信心と念仏(P.127)』(自照社出版刊)という書物の中で、
《「南無とは、帰命と翻訳するが、その本願の仰せに順う帰命には発願回向という意味があ る。また阿弥陀仏というのはその行である」と、南無阿弥陀仏には願と行がそろっていると いういわれがあるから、南無阿弥陀仏と称名すれば、必ず往生することができるのであると 言われていました。ですから善導大師は「南無阿弥陀仏」の六字全体を願行具足の道理を表 す名号と見ておられたことがうかがえます。》と、お示しくださっています。
阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」という声になって何時でも何処でも私と一緒にいてくださるということです。私たちが念仏する、私の口からお念仏が出るということは、私が、阿弥陀さまの救いのはたらきの中にいることなのです。お念仏(名号)そのものが阿弥陀さまであるということは、子どもの時に称えていたただ習慣で親たちの真似をして称えていたお念仏そのものが阿弥陀さまのはたらきの中にあったということでしょう。こちらは想いを運ばなくても、阿弥陀さまのから思われている私であったということです。
ところが、そんなお念仏を勘違いして、自分の都合のいいように世の中が回りますようにと自分の思いを叶えるため念仏申す方もおられるようです。例えば「必勝祈願
南無阿弥陀仏」などというようなものです。自分の欲望を満足させるための念仏ではありません。欲望は欲望を生みます。他の人びとを苦しめることもあります。自分勝手な願い、そして思い通りにならぬことで悩みの多い私たちに本当の安心を与えようと、私たち一人ひとりのことをすべて見抜いて、立ち上げられた阿弥陀さまの願いです。その願いとはたらきがお念仏となって私に届けられていると考えてもよいのではないかと思います。
今月の言葉の通り、阿弥陀さまが私たちに本当の安心を与えるために案じくださったお念仏です。ご恩報謝のお念仏です。皆さまお念仏申しましょう。
南無阿弥陀仏