(2020年 真宗教団連合「法語カレンダー」4月のことば)
今月の法語は、真宗大谷派の僧侶で仏教思想家であり、大谷大学の学長もされていた曽我量深先生(1875〜1971)の言葉です。
東本願寺に掲載されていた曽我先生の法語がウキペディアに紹介されていました。その内、幾つかを紹介させて頂きます。
・ 選択本願の念仏とは 念仏申せば助かるということではない
念仏でなければ助からないということだ
・ 自分がわからないから 信ずる信心がぐらつく
・われわれは知らなくても 仏に願いをかけられ 望みをかけられておる
・ 浄土は言葉の要らぬ世界である 人間の世界は言葉の必要な世界である
地獄は言葉の通じない世界である
・如来は我なり されど我は如来に非ず 如来我となりて我を救いたもう
私は、今月の法語について、はっきり申し上げてよくわからないのです。
お念仏(南無阿弥陀仏)が自分と自分が対話する道だと仰るのですが、自分が自分のことを問うことはできても、自分と自分が対等に話し合うということができるのだろうかと思うのです。
そして「道」と表現されていますのはどういうことでしょうか。
ここからは、上に紹介した法語を基礎に置いて、私なりの解釈を述べさせていただきます。
まず今月の法語で申されます「お念仏」は「選択本願の念仏」のことであることは間違いないと思います。阿弥陀仏が私達に仏の悟りを開かせるために選び取ってくださったのが「南無阿弥陀仏」です。その念仏が「自分と自分が対話する道」であると言われています。
この「道」が「道程」「道のり」という意味であるなら、道をどんどん歩いていくように、お念仏をする身になった者、お念仏(本願)のはたらきを喜ぶ身とならせていただいた者は、自己同士の対話を進めて極めていくということになると申されているのかと思うのですが、私自身がわからないのは「自分が自分に対話する」という表現です。
先に書きましたように、自分で自分を問うていくことはできると思うのですが、対話ということになりますと、自分の中に別の自分が居て話し合うということになります。そんなことが可能なのかということです。そういう自分の中で色々な自分と対話できるようにならなければだめだ。それが本願の要請だ。と、受け取れるような今月の言葉ではないでしょうか。
しかし、上に紹介させて頂きました師の法語を読ませて頂きますと、
・念仏以外に私が助かる道はない。
・自分自身の本当の姿をよくわかっていない自分である。
・そういう私に対して(私がどういう状態でも)阿弥陀さまは常に私に、はたらき続け てくださっている。
・阿弥陀さまは、言葉で限定される世界ではなく、私そのものを包んでいてくださって いる。
このようなことを示してくださっていると受け取らせていただくことができます。
阿弥陀さまの本願(お念仏)のはたらきをよくよく聞かせて頂くことによって、私自身のすがたを知らされて、自分自身が問われていることに気づかされるのではないでしょうか。そのようなことを「自己との対話」と曽我先生は申されたのではないかと思われます。(私の勝手な思いかも知れませんが)
私たちはどうしても自己中心でモノを考え受け取ります。そのことが苦悩の因となるのですが、そんな私をそのまま包み安心させようとはたらいてくださるお念仏(南無阿弥陀仏)なのです。お念仏させて頂く中に常に阿弥陀さまに支え続けられてあることを喜びたいものです。
南無阿弥陀仏