(2023年 真宗教団連合「法語カレンダー」5月のことば)
今年は親鸞聖人のご誕生850年立教開宗800年という記念すべき年ということで、西本願寺では3月29日より5月21日迄5期30日に亘り慶讃法要がお勤めされています。多くの門信徒を集めてのお勤めでありますからその準備から法要当日のお世話などそれはそれは大変なことであろうと拝察します。本当に多くの関係者・スタッフの方々が力を合わせてご努力なさっていることであろうことは想像に難くありません。スタッフの皆さま何卒お身体ご自愛ください。
さて、今月の法語は、大谷大学教授や真宗大谷派教学研究所所長等の要職を歴任された安富信哉(1944~2017)先生の言葉です。
「南無阿弥陀仏は言葉となった仏なのです」
この言葉をいただいて、改めて「南無阿弥陀仏」ということについて確認させていただかないといけないという思いがしています。
『浄土真宗辞典』(本願寺出版社刊)によりますと
「南無」梵語ナマスの音訳。帰命と意訳する。仏・法・僧の三宝に帰順すること。
あるいは敬礼する意で用いられる場合もある。
と、記され「帰命」については、
梵語ナマスの意訳。南無と音訳する。心から信じ敬うという意。
浄土真宗では、本願に帰せよとの阿弥陀仏の勅命の意とする。
『行巻(教行信証)』には「帰命は本願招喚の勅命なり」とある。
またその勅命に衆生が帰順する(信じしたがう)意とし、
『銘文(尊号真像銘文)』には「帰命と申すは如来の勅命にした
がふこころなり」とある。……
龍谷大学の玉木興慈先生はその著『教えのかなめ』(本願寺出版社刊)のなかで、
南無も帰命も、心から信じ敬うということです。
とお示しくださっています。では何に順い、何を信じ敬うのでしょうか。玉木先生は『教えのかなめ』の中で、
私たちが心から信じ敬うということは、裏切られることのない、
究極の拠りどころとして信じ敬うということなのです。それは人に
対して抱く心ではなく、仏さまに対して抱く心ということができます。
決して裏切らない拠りどころとして、私は阿弥陀仏に南無します、帰命します、と
「正信偈」はじめに唱えるのです。
と、書かれています。そして、何故帰命するのかと言えば、阿弥陀仏の本願が招喚する(招き喚ぶ)勅命(仰せ)だからと先生は申されています。
では、何故、阿弥陀さまは、私たちに、帰せよと仰せになるのでしょうか。それは、私たちは自分自身では本当の悟りを開くことができない存在であるからです。
『教行信証』の信巻には
「自身はこれ現に罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫、曠劫(こうごう)より
このかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」
【現代語訳】
「我が身はいまこのように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔から
いつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、
ゆるぎなく深く信じる」
と、このように私たちの本当の相(すがた)をお示しくださいます。
つまり、私たち凡夫は、自らの力で迷いの世界を離れることなど到底できないということです。だからこそ、阿弥陀仏が帰命せよと仰せられるのです。
そして、阿弥陀仏は「私にまかせなさい。必ずあなたを救います」と私たちに向かってご自身の名をもって喚び続けてくださるのです。その喚び声が「南無阿弥陀仏」なのです。
阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」というご自身の名に阿弥陀仏のすべてを込められていると聞かせて頂いています。ですから、南無阿弥陀仏はただの名前ではなく、阿弥陀さまそのものなのです。
今月の言葉はそのことを表してくださっているのだと思います。
皆さま、お念仏申しましょう。
南無阿弥陀仏