「ながく生死(しょうじ)をすてはてて
自然(じねん)の浄土(じょうど)にいたるなれ」
(2009年 真宗教団連合「法語カレンダー」6月のことば)
5月の法話で「五つの不思議」について説明できませんでした。
五つの不思議とは「衆生多少不可思議、業力不可思議、龍力不可思議、禅定力不可思議、仏法力不可思議」ですと先月の最後のところで紹介しました。
「衆生多少(しゅじょうたしょう)不可思議」というのは、すべての生きとし生けるものがつねにまよいの世界に充ちみちて数えきれないことの不思議(=私たちの心で思いはかることができず、また言葉であらわすことのできないこと)をいいます。
「業力(ごうりき)不可思議」とは、4月の法話で書きましたように私たちは自分の行いによって六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)をめぐることを仏教は説きますが、自分自身では次はどの境界に生まれるかはわからない不思議をいいます。
「龍力(りゅうりき)不可思議」とは自然現象、特に大雨や大風は昔は竜神が起こすと考えられていたので龍の力と表わされ、そのような現象がおきることの不思議(説明がつかないこと)をいいます。
「禅定力(ぜんじょうりき)不可思議」禅定とは心静かに瞑想し真理を観察することですがその修業を完成させることで、身につく不思議な力のことをいいます。
「仏法力(ぶっぽうりき)不可思議」とは仏教一般でいえばあらゆる仏様のはたらきで衆生を救う不思議なはたらきをいうのですが、浄土真宗では特に阿弥陀如来さまがすべての衆生を救い浄土に生まれさせ仏のさとりをひらかせる不思議なはたらきをいいます。
親鸞さまは、この「五つの不思議」の中で最後の「仏法不思議」が一番不思議なことであり阿弥陀さまのはたらきがあればこそ私自身が本当に安心して生きそして死んでいけることをお示しくださったのでした。
さて今月の言葉は中国の唐の時代に活躍された善導大師の教えを讃えられたご和讃の中の一節ですが、そのご和讃とは
「五濁悪世のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ」
という歌です。
五濁悪世と申しますのは、私達の世界は五つの濁りに満ちあふれた悪い世の中であるということです。その五つと申しますのは「劫濁(こうじょく)・見濁(けんじょく)・煩悩濁(ぼんのうじょく)・衆生濁(しゅじょうじょく)・命濁(みょうじょく)」です。「飢饉や疫病、戦争などの社会悪が増大し、思想が乱れ、煩悩が盛んになり、人間の質が低下し、衆生の寿命が短くなる(命あることが喜べない)」という濁りに満ちた世界にいる私達であり、その五濁を増大させている私達でもあるとも受け取れます。
そんな不安な世界に生きその不安を自分で大きくしている私達が阿弥陀さまのはたらきにそのままおまかせすることで、この世の命の縁が尽きたら必ず本当の安心の世界(浄土)に生まれさせると、阿弥陀さまが約束して下さっています。それが仏法不思議(弥陀の弘誓)ということでもあります。
阿弥陀さまのはたらきは誰一人も漏らすことのないものです。何時でも何処でもはたらいて下さっている阿弥陀さまです。
絶対に私を孤独にしないのです。
南無阿弥陀仏