「信(しん)は願(がん)より生(しょう)ずれば
念仏成仏(ねんぶつじょうぶつ)自然(じねん)なり」
(2009年 真宗教団連合「法語カレンダー」7月のことば)
今月の言葉も先月と同じ中国の唐の時代に活躍された善導大師の教えを親鸞聖人が讃えられたご和讃の中の一節です。
「信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり
自然はすなはち浄土なり 証大涅槃うたがはず」
「私たち衆生の信心は阿弥陀さまの願い(本願)からおこされているものなのです。ですから念仏によって成仏(仏の悟りを開く)することは自然なことです。自然に成仏するのは阿弥陀さまのお浄土の世界生まれてからのことでありそれも阿弥陀さまのおはたらきです。ですから、阿弥陀さまのはたらきでお浄土に生まれ(往生)、仏の悟り(大涅槃)を開くことは全く疑う余地のないことです」という意味です。
ここでは私たちがお浄土に生まれ阿弥陀さまと同じこの上ない悟り(大涅槃)を開くことは自然なことであると示されていますが、それは信心を頂いた上で語られることです。
浄土真宗では「信心はいただくもの」と示されます。「信心はするもの」だと思っておられる方は多いのではないかと思います。ところが、親鸞さまはその著『教行信証』の中で「信心といふはすなはち本願力回向の信心なり」(教行信証・信巻)と申されています。
本願と申しますのは、阿弥陀さまの「あらゆる衆生(=いのちあるものすべて)に本当の安心を与えたい、その安心を与えるために娑婆の縁が尽きたら必ず浄土に生まれさせ、悟りの仏にならせる」という根本の願いのことを言います。その願いが込められた阿弥陀さまの真実の心が信心なのです。ですから「信は願より生ずれば」と示されるわけです。
阿弥陀さまは、その信(信心)をご自分の名前(南無阿弥陀仏=念仏)にこめて私たちに与えて下さっています。それは、阿弥陀さまのはたらきをそのまま素直に聞かせて頂き受け取ることにより与えられます。
ちょうど赤ちゃんが親のはたらきに何の疑いもなくまかせ切って、安心を親から与えられているようなものです。母親の「お母ちゃんやで」のよびかけに安心した子供が「おかあちゃん」の言葉を返し自分と母との関係をより親密に感じて自らを更に安心させるように「南無阿弥陀仏」も私を絶対に捨てることない阿弥陀さまのはたらきを感じさせる言葉であるというより阿弥陀さまそのものと言ったほうがよいと思います。ですから、念仏のはたらきで浄土に往生し成仏することは自然であるといわれるのです。
何時も状況によってコロコロ変わる私です。だからこそ絶対に私を捨てることのない阿弥陀さまはたらきを機会あるごとに聞かせて頂かなかったなら勿体ないという思いを大切にしたいものです。
南無阿弥陀仏