「大悲(だいひ)ものうきことなくて
つねに わが身(み)をてらすなり」
(2009年 真宗教団連合「法語カレンダー」8月のことば)
今月の言葉は平安時代の中期に出られた源信和尚(げんしんかしょう・942年〜1017年)の教えを親鸞聖人が讃えられたご和讃の中の一節です。
源信和尚は比叡山横川の恵心院に住まわれていましたので恵心僧都(えしんそうず)とも称されています。源信様は天台教学を究められ当時の天皇様の前で仏教の講義されるような方でしたが、名声を嫌われ横川に隠棲されたということです。44歳の時に『往生要集』を著わされ、お念仏が往生の要であることを明らかにされたのです。
源信様のお生まれは現在の奈良県香芝市です。その誕生の地にはひっそりと石碑が建てられてあります。月忌参りの途中、たまにその碑の前を通るのですが、ここで源信様が生まれられたと思うと何か嬉しいような気持ちになります。
さて、親鸞聖人が源信和尚の教えから阿弥陀さまのはたらきを讃えられたご和讃は
「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」
【私たちは煩悩に眼(まなこ)をおおわれて、摂取して下さる阿弥陀如来の光明を見ることができないが、大悲の阿弥陀如来は少しもあきることなく、常に私たちを照らし護って下さっている】
という意味です。
「煩悩」とは私たちの心身を煩(わずら)わし、悩(なやま)し、かき乱し、惑わせ、汚す精神作用の総称です。ちなみに、大晦日に撞かれる除夜の鐘の数(108回)は私たち一人ひとりの持っている煩悩の数だといわれていますが、煩悩の数については「8万4千の煩悩」「煩悩無数」と言われますように数に限りはありません。
親鸞聖人は『一念多念証文』という書物の中で凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず……」と示されています。
煩悩の中に埋没し、欲望・いかり・ねたみなどの思いに振り回されている自分でありながら、そんな自分の姿に気づかないで自分で自分を苦しめ悩んでいくのが私自身であることを親鸞さまは教えて下さっているのでありましょう。
そんな私だからこそ、私たち一人ひとりに本当の安心を与えたいという願いをたてられた阿弥陀さまは私たちを放っておくことができないのです。そのことを表した言葉が
「大悲ものうきことなくて つねに わが身をてらすなり」
でありました。
南無阿弥陀仏