本文へスキップ

浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

〒582-0021 大阪府柏原市国分本町5-6-19

TEL.072-977-3882

浄土真宗とは

今月の法話

2009年11月の法話
   「無明(むみょう)長夜(じょうや)の灯炬(とうこ)なり 
              智眼(ちげん)くらしとかなしむな」
(2009年 真宗教団連合「法語カレンダー」11月のことば)
今月の言葉は、下の和讃(正像末和讃-親鸞聖人作)の一節です。

 「無明長夜の灯炬なり  智眼くらしとかなしむな
        生死(しょうじ)大海(だいかい)の船筏(せんばつ)なり
  罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ」


 通常、読みがな(ルビ)をつけるのは縦書きの場合、文字の右側に付けますが、親鸞聖人はご自身の作られた和讃の中の言葉の左側に左訓(左がな)を付けてその言葉の意味を示して下さいます。

 『無明長夜』は「煩悩を長き夜にたとえる」、『灯炬』は「常のともし火 大きなるともし火。弥陀の御誓いをともし火に喩え申す也。常のともし火を灯という大きなるともし火を炬という」と示され、また、『智眼』は「智慧のまなこなり」、『船筏』は「弥陀の願をふねいかだに喩えたり」とお示し下さいます。

 このような親鸞聖人のお示しから、このご和讃の意味されるのは、私たちは、自分自身の欲望や怒り心・腹立ち心・妬む心などの煩悩に振り回されて生きている。それは、たとえてみると「自分のすがたや自分が今どこにいるのかさえわからないような真っ暗闇の中に長い間閉じこもっているようなものである」その暗闇を何時も力強く照らすともし火があります。それが阿弥陀さまの誓願なのです。ですから自分には自分自身の本当のすがたがわかる智慧の眼(まなこ)が無いから救われようがないなどと悲しむことはありません。
 また、阿弥陀さまの誓願は私たちを迷いの大きな海から救い出す船筏なのです。自分の罪がどんなに重くてもその重みで沈んでしまうことのない船なのです。ですから、自分は罪が重くて救われるはずが無いと嘆かなくともよいのです。

 ここで、阿弥陀仏は何時でも何処でも私たち一人ひとりのことを思い照らし続けはたらき続けて下さり、どんなに罪が深く重い者であっても絶対に捨てることなく必ず救われる方であることが示されています。

 私の母親は3年前に亡くなりました。亡くなる8年ぐらい前から認知症の症状が出て、生前の1年半ぐらいは歩行も困難になり寝たきりで、言葉も少なく会話もできず、一人では何もできない状態でした。当然、私が息子であることもわからなかったと思います。
 そんな母が亡くなってから思うことがあります。母はあの状態でも私をまもっていてくれたのだと。認知症であっても親としてそこにいてくれるだけで、私は安心させてもらってたんだと。親とは子どもにとってそんな存在なのでしょう。

 阿弥陀さまは私たち一人ひとりの親さまであると言われてきました。人間の親には限界がありますが、阿弥陀さまは限界なく何時でも何処でも私と共にあって下さいます。そんな支えがあってこそ私どもは安心するのでしょう。

 「阿弥陀はいつも一緒だよ。支えているから大丈夫だよ」という阿弥陀さまの呼び声を「南無阿弥陀仏」と聞かせて頂きます。
南無阿弥陀仏