「往生(おうじょう)というは 浄土(じょうど)に
生(うま)るというなり」
(2010年 真宗教団連合「法語カレンダー」表紙と1月のことば)
明けましておめでとうございます。
年が変わり、2010(平成22)年の幕開けです。カレンダーも新しくなり今年は徳力富吉郎氏の版画『親鸞聖人伝絵』を挿絵とされ、聖人の御生涯のひとこまを拝見し、聖人の残して下さった言葉にあわせて頂きそのお心に触れさせて頂きたいものです。
今月の言葉は親鸞聖人の書かれた『尊号(そんごう)真像(しんぞう)銘文(めいもん)』という書物の中の言葉です。
西本願寺から出版されています『浄土真宗聖典(註釈版)』には「尊号真像銘文」について以下のように説明されています。
……「尊号」や「真像」とは、礼拝の対象とされていたものを指している。「尊号」とは本尊としての名号という意味で、六字・九字・十字などの名号があるが、その銘文からみて恐らく十字名号であろうと推定される。また「真像」とは善導大師・法然聖人などの浄土真宗伝統の祖師方の肖像画のことである。そしてそれらの名号や画像の上下に書かれた経・論・釈の讃文のことを「銘文」という。したがって本書は、親鸞聖人が、その当時に本尊として安置された名号や祖師の画像の讃文を集め、そのこころを解説されたものである。……
さて、今月の言葉は、善導大師(613〜681・中国浄土教の大成者)
のご文を親鸞さまが解説されたものです。
その内容を簡単に要約しますと「南無阿弥陀仏という言葉について、南無というのは帰命のことです。帰命というのは、お釈迦さま・阿弥陀さまの仰せの通りにしたがうことです。それによって阿弥陀さまの浄土に生まれたいと思う心が出てくるのです。阿弥陀仏というのは、浄土に生まれさせたいという願いと生まれさせるはたらき(をされる方)です。その阿弥陀さまのはたらきによって、私たちは必ず往生させて頂くのです。往生とは浄土に生まれることを言います」ということになります。
「往生浄土」ということは、浄土真宗においては非常に重要なことであります。
仏教は基本的に私が仏陀(悟りを開いた者−苦悩を超越し煩悩から完全に解放され絶対安心の境地に達した者)になる教えです。そのために、仏陀に成ることを目指して自分の力で命がけの修業をする道もあります。しかし、その修業を自分が生きている間に必ず達成する保証はどこにもないのです。何故なら、どのような状態で死を迎えるのか自分でもわかりませんし、修行自体も非常に難しいものだからです。
このような自力の道に対して、仏さまの力(はたらき)によって悟りへの道を歩む教えもあります。
浄土真宗は他力本願の教えです。親鸞聖人は、阿弥陀仏の力(はたらき)に出あい自分自身の本当のすがたに気づかされ、阿弥陀仏のはたらきによってしか救われようのない自分を見られたのです。親鸞さまが他力と言はれたのは、正に阿弥陀さまの力(はたらき)でありました。その阿弥陀さまのはたらきで往生させて頂くということは、私が「死んだらしまい」の死生観を持つのでなく、私の命そのものが永遠に生かされ価値あるものと受け止められる世界を開くものなのです。と、同時に阿弥陀さまがすべての命を救いたいとはたらいておられることは、他の命も、私の命と同じ大切な命であることに気づかされるのです。
だからこそ、阿弥陀さまのはたらきを繰り返し聞かせて頂きたいものだと思います。
南無阿弥陀仏