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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

〒582-0021 大阪府柏原市国分本町5-6-19

TEL.072-977-3882

浄土真宗とは

今月の法話

2010年4月の法話
 「釈迦(しゃか)は慈父(じふ)  弥陀(みだ)は悲(ひ)母(も)なり」
(2010年 真宗教団連合「法語カレンダー」4月のことば)
 今月の言葉も親鸞聖人の書かれた『唯信鈔(ゆいしんしょう)文意(もんい)』の中の言葉です。 
 唯信鈔文意には≪釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。われらがちち・はは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり≫と、示されています。
 慈悲ということについて、仏教では慈を父の愛、悲を母の愛に喩ええられることがあります。
 古代インドのサンスクリット語では、「慈」をマイトリーと言い《他者に利益や安楽を与える〈与楽〉いつくしみ》を意味し、「悲」はカルナーと言い《他者の苦に同情し、これを救済しようとする〈抜苦〉思いやり》を示す言葉であると辞書(岩波仏教辞典)に書かれてありました。又、「悲」ということについて、悲は呻き(うめき)であると聞かせて頂いたことがあります。
 これらのことから、仏教でいう「慈悲」とは「他者(相手)の思いそのままを受け入れ、苦しみ(呻き)をわかり、その苦を抜き安心を与える」ということだと味わうことができます。そうしますと、これは私どもに簡単にできるものではなく、正に如来(仏)さま、菩薩さまのおはたらきだと思います。
 そういう意味で親鸞聖人は、お釈迦さまのはたらきを父と例え、阿弥陀さまのはたらきを母と例えられたのでしょう。この両親の慈悲のはたらきで私たちは「この上ない信心」を頂くのですとお示し下さっています。
 浄土真宗ではお釈迦さまのことを教主、阿弥陀さまのことを救主とお呼びします。それは、私どもを実際に救うのは、阿弥陀さま(南無阿弥陀仏)のはたらきですが、そのことを私どもに教えて下さったのがお釈迦さまであるからです。
 ここで、信心を頂くことで、私どもの苦が抜かれ安心を与えられる世界があるということが示されています。信心を頂くということは、
 私どもをそのまま(今の状態のまま)救いたいという阿弥陀さまのはたらきに、そのまま、おまかせすることだと聞かせて頂いております。       
 ところで、私たちが日ごろ、この身をすべてまかせているというのはどんな状態でしょうか?
 例えば、船や電車などの乗り物に乗っている時、特にその中で眠っている時などは完全に身をまかせた状態になっています。そんな時、「この船は沈むだろうか」「この電車は事故を起こすだろうか」などとは考えていないのです。本当に心配なら眠ることなどできない筈です。つまりは身をまかせているから安心しているのです。いやそれ以前に安心な乗り物だからという信頼があるから身をまかせることができるのでしょう。
 阿弥陀さまとはそんな乗り物のようなものと例えることができます。私の身をそのまま乗せて抱いて離さないのが阿弥陀さまだからです。
 でも普通の乗り物の中では他の人とトラブルが起こるかもしれません。又、自分の体調が悪くなるかもしれません。そんなことでその乗り物に乗っていることが出来なくなることもあり、目的地に着くまでに自分から降りなくてはいけないことも起こるかもしれません。
 大阪教区基幹運動推進委員会がだされているシリーズ「心に響く言葉」@という冊子に
 『阿弥陀さまは 母のよう 反発して背を向けていても 
 いつもいつも 私のことを案じて くださっている』
という言葉が紹介されていました。
 阿弥陀さまは、この身をまかせられ、この身を案じて下さる方なのです。だからこそ安心なのです。阿弥陀さまのはたらきをそのまま受けとらせて頂きましょう。
南無阿弥陀仏