「この如来(にょらい) 微塵(みじん)世界(せかい)に
みちみちたまえり」
(2010年 真宗教団連合「法語カレンダー」5月のことば)
いよいよ、西法寺の本堂内陣改修並びに鐘楼屋根吹き替え工事が始まりました。お内陣は空になり修復以外のお道具などが外陣に置いてある状態です。
空になった本堂を見ていると、私の中も空になったような気がします。本堂は、ご本尊があってこそ本堂なんだな、と改めて感じさせて頂くとともに、目に見えるものだけに固執する自分であったことにも気づかされることです。
目に見ても見えなくても、形があっても無くても、阿弥陀さまはいつでも何処でも私と一緒におられるのです。そのことを表して下さったのが今月の言葉です。
この言葉も先月同様、親鸞聖人の書かれた『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』の中の言葉ですが、何故“阿弥陀さまは微塵世界にみちみちたまえり”と言われるのでしょうか。
それは阿弥陀さまの願いを見ればわかります。
阿弥陀さまが仏の悟りを開かれる前、法蔵菩薩さまであった時にたてられた四十八の願いが『仏説無量寿経』に説かれてあります。
その願いの十二番目には
「わたしが仏になるとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、私は決してさとりを開きません」
そして十三番目には
「わたしが仏になるとき、寿命に限りがあって、はかりしれない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、私は決してさとりを開きません」
【本願寺刊 浄土三部経(現代語版)】より抜粋
という願い(誓い)があります。
つまり、法蔵菩薩が阿弥陀仏になっておられるということは、この二つの願いも他の四十六の願いと同じように完成されたということです。ですから、阿弥陀さまはどんな世界でも照らし、いつの時代でもはたらき続けられるのです。
微塵とは小さな小さなことです。一説には“分子”であるとも言われますが、ここでは、どんな世界いかなる小さな場所であっても阿弥陀さまははたらいて下さっているということでしょう。もう少し味わいますと、私という人間は分子の集まりです。その分子一つ一つに阿弥陀さまは、はたらいて下さっている。ですから私の中に阿弥陀さまは満ち溢れて下さっていると受けとることもできます。このような意味から
「この如来 微塵世界に みちみちたまえり」と申されるのです。
私がどんな状態であっても、つねに阿弥陀さまは、この身を案じて下さり、絶対に私のことを裏切ることのない方なのです。だからこそ、阿弥陀さまのはたらきをそのまま受けとらせて頂くなかに、私たちが安心して生きていける世界が開かれるのだと思います。
南無阿弥陀仏