「凡夫(ぼんぶ) 煩悩(ぼんのう)の泥(でい)のうちにありて
仏(ぶつ)の正覚(しょうがく)の華(はな)を生(しょう)ず」
(2010年 真宗教団連合「法語カレンダー」6月のことば)
梅雨の季節にはいります。「梅」と「雨」と書いて「つゆ」と読みますが、どうしてなのでしょうか。
インターネットとはこういうことを調べるのには便利なもので「梅雨の語源」で検索したら色々ありましたが、確実にコレというものはないようです。
梅雨(ばいう)とは、中国の揚子江流域で、梅の実が熟す時期に雨期があり、それを梅雨と呼んでいることから伝わってきた言葉のようです。又、中国では黴雨という字が当てられていたそうで、黴(カビ)の生える時期の雨ということで、もともと黴雨だったものが、共に梅の時期とも重なるので、梅雨として日本に伝わった”とするのも有力な説の一つだそうです。
「梅雨」を「ツユ」と呼ぶようになったのは、江戸時代の頃からだそうですが、語源については、
・雨粒や水滴のことを露、”つゆ”と呼んだことから、梅雨を”つゆ”と読むようにな っ た。
・梅などの実が熟すことを、古い言葉で”つはる”といい、この”つはる”が元となって梅雨を
”つゆ”と読むようになった。又、梅の実が熟してつぶれる時期であることから、「つぶ
れる」を意味する「潰ゆ(ついゆ、つゆ)」から来ている。
など諸説があるようです。
このように語源はよくわかりませんが、その雨が大地に根を張るものにとっては恵みの雨、実りをもたらす有り難い雨となるということを指摘される方もおられました。
さて、前置きが長くなりました。
親鸞聖人が80歳の頃、天親(世親)菩薩(西暦400年〜480年頃・インド)著書を曇鸞大師(476〜542・中国)・道綽禅師(562〜645・中国)・善導大師(613〜681・中国)という方々が註釈されたものを頂かれ讃えられて作られた詩(漢文の詩)があります。『入出二門偈(にゅうしゅつにもんげ)』という書物ですが、今月の言葉は、その入出二門偈の中にある言葉です。
ここで親鸞さまは、天親さま曇鸞さまのお示しを受けて、阿弥陀如来のはたらき(他力)により、煩悩成就の凡夫が煩悩を断ち切ることなく仏の悟りを得ることができることを示されています。
それはちょうど、蓮の花が高原の乾いた土地に根を張り花咲かすのではなく、湿地の泥沼に根づき花咲かせるように、煩悩の泥にまみれ沈み込んでいる凡夫が、仏のさとり(正覚の華)を開くことができることを示されているのが今月の言葉です。
先にツユのことを書きましたが、私たちにとって黴(かび)は嫌なものです。困りもので、不潔・汚いものと言えます。そのカビを多くはびこさせる雨がバイウ(黴雨)でありました。その黴雨という表記を梅が実り熟す季節の雨という意味で「梅雨」と書き、語源ははっきりしなくても「つゆ」というなんとも美しい響きの音にしたのは、嫌なものでも大切なものだから、私たちが受け入れやすいを響きにしようという先人の知恵ではなかったかとさえ思えるのです。
阿弥陀さまのはたらきも、今のままの私どもがそのまま受け入れることのできるように仕上げられたものだと思います。つまり、欲が多くて、怒り、腹立ち、そねみ、嫉みの心などの煩悩を根底に持ちながら生きている私、煩悩の真っただ中に沈み込んでいる私だからこそ本当の安心が得られないのです。
阿弥陀さまは、そんな私に「ああしなさい、こうしなさい」と命令される仏さまではありません。私を今のままで安心させたいというのが阿弥陀如来の願いでありはたらきなのでしょう。そのはたらきそのものが「南無阿弥陀仏」の念仏にすべておさまってあります。
私たちは念仏を称えることで阿弥陀さまのはたらきの中にある自分であることを確認し、何時でも阿弥陀さまから思われ通しの自分だったと気づかされます。だからこそ、少しでも阿弥陀さまの願いに応えていきたいものです。
南無阿弥陀仏