「信心(しんじん)をうれば 暁(あかつき)になるがごとし」
(2010年 真宗教団連合「法語カレンダー」7月のことば)
親鸞聖人750回忌西法寺記念事業の一つであります鐘楼(つり鐘堂)の屋根替え修復工事は6月末で完了しました。6月20日頃に鐘楼周りの工事用足場・仮屋根が撤去されその姿を現わしてくれました。銀灰色に輝く新しい屋根は以前より重厚感が増しました。「やはり、綺麗になっていくことはええなぁ」というのが実感ですが、こうして修復工事をさせていただけるのも皆さまのおかげなのです。
仏教は「存在しているもののすべてが有ることが難しい」ということ教えて下さるものだと思います。今、目の前にある鐘楼、私が生まれた時には既にそこにあって、建っているのが当たり前のように思ってきましたが、今から300年以上前に多くの方々のご苦労によって建てられ、今まで雨や風に耐え、壊れたら誰かが直し、今に至っているのでしょう。その上、釣鐘は第2次世界大戦の時に供出になりながらも終戦後還ってきたのです。鐘楼も釣鐘も有り難い存在であったのです。
仏教では「存在していることが当たり前のものなど一つもない」と、考えますから、すべての”いのち”が有り難く尊いものであることを教えて下さいます。そういう意味で不殺生が第一におかれるのではないかと思います。
そのいのちの尊さに気づかせ、いのちを本当に大事にして下さるのが阿弥陀さまのはたらきなのです。
さて、今月の言葉は『尊号真像銘文』という親鸞聖人が著された書物(今年の1月の法話で説明済)です。
親鸞さまは、ここで、ご自身の書かれた正信念仏偈の言葉の解説をなさっています。その中に次のような一文があります。
「『摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)』というは、信心をえたる人をば、無碍光佛の心光つねに照らし護りたまうゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。『已能雖破無明暗(いのうすいはむみょうあん)』というはこのこころなり。信心をうれば暁になるがごとし」
浄土真宗の信心は、阿弥陀さまから頂くものです。決して私が積み上げ作り上げていくものではありません。上の文にもありますように、阿弥陀仏が私のことを救いたいと、ずっと抱き続けて下さっていると受け取らせていただくことができた者は、阿弥陀さまにつねに照らし護られていると受け取ることができるのです。
私のことを絶対に捨てることない方が何時も一緒にいて下さるということは、私に孤独な世界はないということです。孤独とは、自分自身が見えなくなっている状態ではないでしょうか。それは真っ暗闇の中にいるようなものだと譬えられているのです。その暗闇の夜が明けて闇が無くなることで自分の姿が見え周りの世界も見えることで安心するように、私の孤独の闇を破ってくださるのが阿弥陀さまなのです。ですから、信心をうれば孤独の闇が消え、暁となると示されるのです。
私たちいのちあるものは、阿弥陀さまに大事にされる尊いいのちを頂いているお互いであることに気づかされるのが浄土真宗の教えでもあります。
南無阿弥陀仏