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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

〒582-0021 大阪府柏原市国分本町5-6-19

TEL.072-977-3882

浄土真宗とは

今月の法話

2010年12月の法話
   「浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)は 
          大乗(だいじょう)のなかの至極(しごく)なり」
(2010年 真宗教団連合「法語カレンダー」12月のことば)
 11月26日、本堂内陣の彩色の修復作業が終わりました。約2ヵ月間朝早くから夜遅くまで根を詰め、きめ細かい作業をして頂きました。その結果、本当にきれいな彩色が甦り、各柱上部の鳳凰・唐獅子、欄間の上の部分にある彫刻(孔子の二十四孝の内の七つを題材にしたもの)も金箔が置かれ、塗り直されて生き生きとした表情を見せてくれています。

 前住職がまとめてくれていた西法寺の歴史の記録を見ますと、現在の本堂は、寛文6年(1666年)から貞享2年(1685年)の約20年間をかけての工事で完成したようです。そして、内陣の整備はその約100年後、寛政元年(1789年)から寛政3年にかけてされたということです。今からおよそ220年前の彩色が甦り、その美しさ奥深さを目の当たりにしますと、代々の住職、ご門徒の方々の思いがこの姿になって現れ出て下さったのではないかと、何とも言いようのない熱いものがこみ上げてきました。

 そんな大きなはたらきの上に立たせて頂いている自分であると改めて知らされたことです。今ここに、いのち頂いている自分が居ることの素晴らしさ、有り難さに、思いを致さないと勿体ないことだと気づかされたことであります。

 ところが、自分がそして全てのいのちの存在が有り難いことであるという思いを常に持ち続けて生きることは不可能であります。どちらかというと自分の都合でいのちの価値を判断しているのが私自身ではないかと思います。

 親鸞聖人はご自分のことを非常に厳しく見つめられた方です。
その親鸞さまが作られた歌に
       浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし
          虚仮不実のわが身にて  清浄の心もさらになし
と示されています。

 この歌(和讃といいます)は「愚禿悲歎述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)」
(全部で16首)の最初に出される和讃です。この16首の和讃の最後に「これは愚禿がかなしみなげきにして述懐したり…」と、記されてありますように、親鸞さまの悲しみの叫びと受け止めてもよいのだと思います。親鸞聖人が「浄土真宗」と記される時は、宗派の名前ではなく、極楽浄土に生まれる(往生)ための真実の教えということです。

 そこで、このご和讃の意味を考えてみますと
 「阿弥陀さまのはたらきに遇わせて頂いている親鸞であり、その阿弥陀さまの心は誠に有り難いことであります。しかし、私自身は虚仮不実(こけふじつ=真の心など全くなく嘘いつわりばかり)であり、清らかな心など全く持ち合わせていないお恥ずかしい愚かな者、救われようのない者です」
という親鸞さまの悲しみが表現されていいます。
 しかし、そんな愚かな者をこそ、浄土に生まれさせ成仏させずにはおかないというのが阿弥陀さまのはたらき(浄土真宗)でありますと喜んでおられるのではないかと思います。

 大乗という言葉は、いのちあるものすべてが救われることを、大きな乗り物に喩えられたものです。今月の言葉は、親鸞さまのお手紙の中に出されてくる言葉ですが、上にも書きましたように、救われようのない者が救われる阿弥陀さまのはたらきでありますからこそ、大乗仏教のなかでも、一番極った教え・はたらきが、浄土真宗(阿弥陀さまの真実の活動)であると申されるのでありましょう。
聴聞(阿弥陀さまのはたらきを聞かせて頂くこと)の大切さを改めて思います。
南無阿弥陀仏