「雑(ぞう)行(ぎょう)を棄(す)てて 本願(ほんがん)に帰(き)す」
(2011年 真宗教団連合「法語カレンダー」10月のことば)
本日9月29日のニュースで、ある事件に対する判決が名古屋地裁で言い渡されたことを報じていました。
この事件は、2008年6月8日に愛知県犬山市の木曽川で起き、水難事故に見せかけ離婚調停中の妻にスタンガンで電気ショックを与え水死させたとして、殺人罪に問われた夫に対し、懲役19年(求刑・懲役20年)の判決が出されました。
その判決理由は「強固な殺意に基づき、計画性の高い卑劣で残忍な事件。公判で被害者への不満を述べるなど反省の態度がない」ということだそうです。
ところが、被告弁護側は、妻は事故死であり、無罪を主張しています。
これは事件か事故か、本当のところは私には判りませんが、この判決によると、夫が嘘をついていることになるのでしょう。しかし弁護側は無罪を主張して控訴をするようです。どちらの主張が正しいのか?裁判を進めていく中で決着を見ることになりますが、裁判長の言う通りであるなら、この夫は「嘘つき」ということになります。そしてこの夫が無罪を主張し続けるなら、ずっと嘘をつき続けなければならないことになります。
親鸞聖人は「凡夫」ということについて、「凡夫というのは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念ににいたるまで、とどまらず、きえず、たえず…」と、『一念多念証文』という書物の中でお示し下さいます。
凡夫である私たちは煩悩に支配され自分の欲望(都合)で怒りや腹立ち、嫉み心などを死ぬまでずっと持ち続けるものであるということです。
そういう意味で、この裁判の判決の通り、夫が嘘をついているなら、それは自分を都合よく守るためのものであると言えます。
自分の都合でしか物を考えることのできないのが凡夫なんですよと親鸞さまはお教え下さっているようです。
さて、今月の言葉は、『教行信証』の最後の方にだされるお親鸞聖人ご自身の言葉です。前の文から引いてみますと、
「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の歴、雑行を棄てて本願に帰す」【ところで愚禿釈の親鸞は、建仁元年(西暦1201年)に自力の行を捨てて、阿弥陀仏の本願=すべてのいのちを救わずにはおかないという願いとはたらき=に帰依しました】ということです。
親鸞聖人は、色々なご縁により阿弥陀さまの本願に出あわれ、あて頼りにならない自分の姿に気づかされていく中で、自分自身が阿弥陀仏のご本願のはたらき以外に救われる道がないと気づかされたのでした。
不安定で煩悩にまみれた自分が、自分の力で修行を積み上げていく道を捨てられたのです。
そのご本願が私の上では「南無阿弥陀仏」(念仏)という言葉となって現れて下さっているのです。念仏を称えることは、阿弥陀さまと共にある自分を確認することでもあります。ご本願のはたらきは、間違いだらけのこの私であっても絶対に捨てることなく包み込み大切にして下さるのです。
縁あるごとにそのはたらきを聞かせて頂き、共に喜ばせて頂きたいものです。
南無阿弥陀仏