「極重(ごくじゅう)の悪人(あくにん)は
ただ 仏を称(しょう)すべし」
(2012年 真宗教団連合「法語カレンダー」5月のことば)
私にとっての花粉の季節はそろそろ終わりを迎えようとしています。症状が少しずつ楽になってきて「そろそろ終わりかな」と思いますと、やっぱり「ほっと」します。そして、花粉のアレルギー症状が無くなってしまうと、もうすっかり花粉のことは忘れているというようなことが毎年です。ですから、来年2月下旬ぐらいまではアレルギーへの対策は皆無で毎年同じことを繰り返しています。本当は今から体質改善に取り組んだら治るのかもしれません。自己弁護ですが、私の性格として、目前に迫らないと、いや、事が起こらないと何もできないみたいです。(何時もそれではアカンと思うのですが……)
さて、今月の言葉は、お正信偈の後の方に出てきます。
源信和尚の教えを讃えられたところの一節です。
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
極重の悪人はただ仏を称すべし われまたかの摂取の中にあれども
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲、倦(ものう)き
ことなくして、つねにわれを照らしたまうといえり
このご文を『顕浄土真実教行信証文類(現代語版)』〔本願寺刊〕(151頁)には、
「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂さめ取られているけれども、
煩悩がわたしの眼(まなこ)をさえぎって、見たてまつることができない。
しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明はそのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と述べられた。
と、示されています。
源信さまは、必ず私に仏の悟りを開かせるという阿弥陀仏の本願を疑いなくそのまま受けとり、阿弥陀さまにおまかせし、そのはたらきをよろこび念仏させて頂くことが、私達が仏になっていく道(仏道)であることを示されました。
そして、仏の悟りを開くことなど到底できないとされている極重の悪人にも仏と成ることのできる念仏の道が開かれていることをお示し下さったのです。
私達が阿弥陀仏に向かわず、よそ見ばかりしていても阿弥陀仏はこの私のことを常に照らして下さっているのです。
自分を甘やかし、自分の都合という秤で他の人びとの良し悪しを判定したり、「できない」「わかってもらえない」などと自己弁護にはしる私という人間に対しても、阿弥陀さまは、絶対に見捨てることなく、常にはたらき続けて下さっているということなのです。
親鸞聖人はおそらく、この「極重の悪人」とは自分自身のことだと申されているのだと思います。
そして、自分のことしか考えていない私こそ「悪人」だと教えて下さっているでありましょう。
だから、阿弥陀さまのはたらきを縁あるごとに聞かせて頂くことが大切になります。
南無阿弥陀仏