「ただ 如来(にょらい)にまかせまいらせ
おわしますべく候(そうろ)う」
(2012年 真宗教団連合「法語カレンダー6月のことば)
今年は異常気象と言った方がよいのか,素人の私にはよくわかりませんが、素人の私でもわかることは、例年になく竜巻が発生する気象条件が多いことや突然の雷大粒の雹、激しい雨などにより日本各地で相当な被害が出ていることです。
このような例年にないことを私たちは「常時と異なる」ということで「異常」と言います。「異常」の反対語は「正常」ということです。
私は自分自身のことを「異常」とは思っておりません。きわめて正常であり、他の人々のことも世間の事も判っていると思っています。しかし、そうでしょうか?
「異常」と「正常」の境界線は何処でしょうか?
そう問い詰められると、答えが見つかりません。
しかし、それでも答えます「私は正常です」と、世間の人に「異常」と見られたくはありませんから……。
自分が正常だと思うものさしは「常識」です。常識からあまりずれていない自分を見て安心しています。
では「常識」とは何でしょうか?と、問われると、これまた即答できませんが、インターネット(ウィキペディア)で調べてみますと、常識とは「社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと」と記されていました。
確かに、このような常識をもって物事を正常に判断して生きていくことが大切だと、ずっと思ってきたような気がします。
さて、親鸞さまの最晩年の歌に
是非しらず邪正もわかぬこのみなり
小慈小悲もなけれども名利に人師をこのむなり
(私は物事の是非も知らない。また邪正の判断もできない愚か者です。小さい慈悲さえ持たないのに、自分の名誉や利益のために人の上に立つことを好んでいます。まことに恥ずかしい極みであります)
この親鸞さまの言葉を聞かされますと、自分というのは本当に当て頼りにならないものだと知らされ気付かされます。
このような私の姿に気付かされますと、私が自分の力で仏の悟りを開こうなどというのはなんとおこがましいことかと教えられます。
そのような私に対し、阿弥陀如来は私のすべてをわかって、私に仏の悟りを開かせるために、はたらき続けてくださっています。
そのはたらきをそのまま受け入れて下さいとのお示しが、今月の言葉であります。この言葉は、親鸞さまが関東のお弟子さんたちに当てたお手紙(御消息)に出てきます。西本願寺出版の『浄土真宗聖典』では御消息の23番目(781頁)に出されています。
この御消息を拝読しますと、この言葉の出される前の部分で
「往生の業には、わたくしのはからいはあるまじく候なり」と示されてあり、引き続いて、今月の言葉
「ただ如来にまかせまいらせおわしますべくそうろう」と
示されてあります。
ですから、阿弥陀さまのはたらきを縁あるごとに聞かせて頂くことが大切になります。
南無阿弥陀仏