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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

〒582-0021 大阪府柏原市国分本町5-6-19

TEL.072-977-3882

浄土真宗とは

今月の法話

2012年7月の法話
   「生死(しょうじ)のうみに うかみつつ
            有情(うじょう)をよぼうて のせたもう」
(2012年 真宗教団連合「法語カレンダー7月のことば)
 「あなたは親鸞聖人のことを何時頃から意識するようになったのか?」と、問われますと、良く分からないというのが本当のところです。私は浄土真宗の寺院に生まれ育てられているわけですから親鸞聖人のことは自然に耳にしていたであろうことは容易に想像がつきます。ただ、自分の記憶の中ではっきりと「親鸞」という名前が出てくるのは、今から50年前「親鸞聖人700回大遠忌」記念として作られた「しんらんさま」(作曲・古関裕而 ; 作詩・滝田常晴 ; 歌・島倉千代子)です。

 あれは多分私が8歳頃(昭和38年ころ)のことかと思いますが、当寺の法座の折、龍谷大学の学生が二人でお見えになり、ご法話と人形劇をして下さいました。そのときに「しんらんさま」の歌を教えて下さったのです。「しんらんさまは にこやかにー♪♪」とすぐに覚えて歌っていたことを思い出します。その後は当寺でも報恩講の折には、ご法話の後でお参りの皆さんと歌っております。

 ところで今「自分は親鸞聖人と出あっているのだろうか?」と、自問しても、答えは「良く分からない」というのが本当のところかもしれません。しかし、親鸞聖人の教えは、私のための説かれた教えであるとも思えるのです。

 「お正信偈」の中に「如来所以興出世、唯説弥陀本願海」とあります。その意味は「如来(お釈迦さま)がこの世にお出ましになられたのは、ただ、阿弥陀仏の本願の世界を説くためでありました」ということです。
びっくりします。
 「ちょっと待って下さい親鸞さま。そんなことを言ったら他の宗派の人は大層怒られるのと違いますか?」
と、言いたくなるような正信偈のご文です。

 しかし、親鸞さまにしてみますと、救われるはずのない罪業深重(ざいごうじんじゅう)の自分が、救われる(仏の悟りを開くことができる)阿弥陀さまのはたらき。そのはたらきに出あうことができたのは、お釈迦さまがこの世界に生まれられ悟りを開き、教えを説いて下さったからだと大声で叫びたいような喜びの表現がこのご文となっているのではないかと思います。
 私は一人しかいません。その一人の私を救う法が阿弥陀仏のはたらきであり、生きとし生けるものを救う法でもありますとも受け取れるのです。

 今月の言葉は、親鸞聖人の作られた「正象末和讃」の
  『弥陀観音大勢至 大願の船に乗じてぞ
  生死のうみにうかみつつ 有情をよぼうてのせたまう』
 の下線のご文です。この和讃の意味は、
 「阿弥陀仏・観音菩薩・大勢至菩薩は、一切の生きとし生けるもの(衆生)を救って捨てないという願いを船にたとえられ、その船に乗って、底がないほど深く果てしない迷いの海に浮かびながら、衆生を呼び続けて乗せて下さるのです」ということになります。

 自分自身がそんなに深い迷いの中にいるとはとても思えませんが、そんな私が本当は迷いの真っただ中にいることを見抜き放っておくことができないのが、阿弥陀さまなのです。ですから、私のことを呼び続けて下さっているのです。その阿弥陀さまの呼び声がお釈迦さま、親鸞さまの教えとなって私を救うために届いているわけですから、それは、私のためのご苦労であったのです。
南無阿弥陀仏