「如来(にょらい)の願(がん)船(せん) いまさずは
苦(く)海(かい)をいかでか わたるべき
(2012年 真宗教団連合「法語カレンダー9月のことば)
残暑厳しい毎日が続いています。確かに少しずつ秋が近づいていることは感じられるのですが、「暑い」という言葉が、毎日口をついて出てきます。いくら言っても涼しくなるわけではないのですが、つい言ってしまうものです。
言っても仕方がないことを言って嘆くことを「愚痴(ぐち)をこぼす」と言います。
仏教では、「愚癡」と書きますが、その意味は『仏教の教えを知らず、道理やものごとを如実に知見することができないことをいう……通俗的には愚かで知恵のないこと一般をいう……』(岩波仏教辞典)と書いてあります。
そのような「愚癡」の心に左右され不安を持って生きているのが私達であるとも教えられます。今月の言葉は、不安を持った私達をそのまま救う阿弥陀さまのはたらきを示された言葉と受け止めることもできるのではないかと思います。
今月の言葉は、親鸞聖人の正象末和讃の中の言葉です。《下線部が今月の言葉です》
小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき
小慈小悲とは小慈悲のことで、自分の身にかかわりのあるものだけを愛することです。それは、他の者と比較したり区別したり、差別したりすることで生まれてくる愛情であるともいえます。しかし、それを突き詰めていくと結局は自分の都合にあわせての愛ということになり、他の人のことを大切におもうという慈悲の心とはかけ離れているのです。このような意味で、親鸞さまは、ご自身のこととして「小慈小悲もない凡夫である」と表現されています。
その小慈小悲のない自分が仏の悟りを開く(成仏)のために、人々に本当の安心を与えることなど到底できるはずもないのです。
つまり、仏に成るための功徳を積むことなどとてもできない自分であるということです。そんな自分を目当てにして「仏に成らせよう」とはたらいて下さるのが阿弥陀仏です。
この和讃では、阿弥陀仏のはたらきを船に譬えて「如来の願船」と表し、人生の迷い(不安)と苦しみを乗り越えていくことができる世界があることを示して下さっています。
つまり、船に乗るのは、自分の身全部です。阿弥陀さまは、不安や悩み苦しみを持ったままの私を船に乗せられるのです。
阿弥陀さまはこの身全体を包んで抱きかかえて下さり、その阿弥陀さまのはたらきにより必ず仏の悟りを開くことができるのです。
今の自分を全部引き受けて下さるのが阿弥陀さまなのです。
南無阿弥陀仏