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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

〒582-0021 大阪府柏原市国分本町5-6-19

TEL.072-977-3882

浄土真宗とは

今月の法話

2012年12月の法話
 いよいよ 大悲(だいひ)大願(だいがん)はたのもしく
 往生(おうじょう)は 決定(けつじょう)と存(ぞん)じ候(そうら)え 」
(2012年 真宗教団連合「法語カレンダー12月のことば)
 「お墓のお性根抜きお願いします」「お仏壇のお魂入れお願いします」 よくそういう電話がかかってきます。
 浄土真宗では基本的に「魂入れ、魂抜き」ということは言いません。
どうしてかと申しますと、私の力で、阿弥陀さまを呼び出したり、帰ってもらったりという考えが無いからです。

 ただ、今まで礼拝させて頂いたお仏壇やお墓に対して、お礼を申し上げひとつの区切りをつけるという意味で「遷座(せんざ)」のお勤めや、新しくお仏壇をお迎えしたということで「入仏(にゅうぶつ)式」、又、新しくお墓を建てられたということで「建碑(けんぴ)式」のお勤めはさせて頂いております。

 浄土真宗でお勤めする意味は、仏徳讃嘆(ぶっとくさんだん)と仏さまに対するお礼です。お願い事を叶えてもらうためや先祖を慰めるためにお勤めするとは考えていません。
 何故そうなるのかと申しますと、そこには親鸞さまが教えて下さる人間の姿を想定しているからだと思います。親鸞さまは私どものことを「罪悪深重の凡夫」「極重の悪人」「濁悪邪見の衆生」等々と表現されています。そのような私どもを支え安心を与えようとはたらき続けて下さるのが阿弥陀さまなのです。

 さて、今月の言葉は親鸞聖人の言行録ともいうべき「歎異抄(たんにしょう)」の第9条の中の言葉です。
 第9条は、自分(人間)の本当の姿と、阿弥陀さまのはたらきについて申されています。本願寺から出されています歎異抄の現代語版を引用します。
 念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、又少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうかとお尋ねしたところ、次のように仰せになりました。
 この親鸞もなぜだろうかと思っていたのですが、唯円房よ、あなたも同じ心持だったのですね。よくよく考えてみますと、おどりあがるほど大喜びするはずのことが喜べないからますます往生は間違いないと思うのです。喜ぶはずの心が抑えられて喜べないのは煩悩の仕業なのです。……(以下略)……

 このように、煩悩にまみれた私であるから、阿弥陀さまのはたらきを素直の喜べずお浄土に生まれたいとも思わない。つまりは自分の都合のよいように生きている私の姿をお示しくださっているのだと思います。
 親鸞さまは、阿弥陀さまに逆らって生きている自分自身のことを「罪悪深重の凡夫」「極重の悪人」等と申されました。
 そしてそんな心根の私達であるからこそ、絶対に救わずにはおかない、絶対に捨てることなどできないと、はたらいて下さる阿弥陀さまのことをお示しくださったのが、この第9条のお心だと思います。

 阿弥陀さまは、煩悩まみれの私どもの姿を全部見通して、憐れみ悲しみの思いを抱き、絶対に救うという大いなる願いをおこされ、はたらいて下さっているのです。
 私が「念仏しても喜びの心が起こらない」「お浄土に生まれたいと思わない」などという思いを持っていようとも、阿弥陀さまは見捨てることなくはたらいて下さっているわけですから、往生(お浄土に生まれさせて頂くこと)は間違いないのです。

    「お念仏にであう以外 救われようのない 煩悩成就の私」
                           (故 東井義雄先生のことば)
南無阿弥陀仏