「 人間とは その知恵ゆえに まことに 深い闇を生きている 」
(2013年 真宗教団連合「法語カレンダー表紙と1月のことば)
仏教は縁起の法を説きます。一つの物事が起こるのは、原因と様々な条件が重なってその結果がもたらされるということです。ですから、例えば、自分の悩みということでいえば、その悩みを起こす原因と条件(縁)があり、その原因と条件をすべて理解することができたら、その悩みを乗り越えることができるというわけです。
仏の悟りとは、その原因と条件をすべて見通す、理解する力を持つことであると思います。これは言葉でいうことは簡単ですが、その能力を身につけることは決して容易なことではありません。実際、仏教ではその能力を身につけられた方は、歴史上、お釈迦さまお一人なのです。ですから、お釈迦さまは、私達に、悟りへの道(仏道)をお示しくださいました。
親鸞さまは、お釈迦さまの説法(「浄土三部経=仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経」)そして、多くの先輩達の解説やお示し、特にお師匠さまの法然聖人のご教示により、仏道が念仏の道であるとお示し下さったのです。
阿弥陀仏が、何時でも何処でも私共と一緒にいて下さり、私のいのちを絶対に捨てることのないはたらきをして下さっていることをそのまま疑いなく信じて、お礼の言葉として称えるのが「南無阿弥陀仏」の念仏なのです。
そこには、私自身が今のまま、どんなに悪い心を持っていようとも、どんなに欲望が深くても、絶対に見捨てることがない阿弥陀仏のはたらきがあります。
今年のカレンダーの表紙の言葉は、真宗大谷派の大学者であられた金子大栄先生の言葉です。この言葉を発せられた先生の思いとは異なるかも知れませんが……。
私は、何故念仏をすすめられるのか。阿弥陀仏が、私のことを救いたい・放っておくことができないのは何故かと、想いを馳せることが大切であるとおっしゃっているのではないかと思います。
それを問うことで自分の姿が明らかになってくるからでありましょう。
先月も書かせて頂きましたが、親鸞さまは、阿弥陀さまに逆らって生きている自分自身のことを「罪悪深重の凡夫」「極重の悪人」等と申されました。
そんな恥ずかしい自分に対する阿弥陀さまのお慈悲のはたらきを、そのまま喜ばれた方の一人、足利源左さんの言葉が1月の言葉です。
私が京都の伝道院というところで学ばせて頂いておりました時に、藤澤量正先生から、この言葉について教えてもらったことがあります。それは、「力(ちから)」ときたら「強い」とか「弱い」と表現すべきものなのに、ここでは「ぬくい」と表現してあることが素晴らしいと教えて頂きました。
源左さんにすれば、阿弥陀さまのはたらきを思う時、自然にこのような表現になったのでしょうとも言われていました。
私がどうあろうとも、絶対に捨てることのない阿弥陀さまのおはたらき、お慈悲のはたらきは、私共のことを、初春の太陽のように温かく包んで下さっています。
今年もよろしくお願い申し上げます。
南無阿弥陀仏