「念仏もうすところに 立ち上がっていく力が あたえられる」
(2013年 真宗教団連合「法語カレンダー」4月のことば)
気候不順と申してよいのか分かりませんが、東京からは早くも満開の桜便りが届き、当寺の前の桜も間もなく満開になりそうな感じです。
4月の法語は、西元宗助師(1909年〜1990年)の言葉です。
私が龍谷大学の学生の頃(37年ほど前)、仏教青年会のメンバーでした。当時、仏教青年会主催で「公開講座」を開いておりました。その公開講座の講師として西元先生にご講演頂いたことを思い出します。
講演の内容はもうほとんど覚えてはおりませんが、確か、先生が親鸞聖人の教えに出会われたことや、戦争中のご自分の事をお話し下さったと思います。
私は先生のお話を聞いて、なんと純粋な方だという印象を持ちました。私にはとても真似できないと思ったことでした。
ただ、その講演の中で、念仏詩人といわれる 榎本栄一さんの『ぞうきんの詩』を黒板に書かれて、ご紹介下さったことは、印象深く覚えていす。
『ぞうきんは
他のよごれを
いっしょうけんめい拭いて
自分は よごれにまみれている』
今、先生の著書「ここに道あり」(昭和52年探究社刊)を改めて読ませて頂きますと、このぞうきんの詩について以下のように書かれています。
「わたしは、この詩をよむまで、ただの一度も雑巾のことを想ったことがない。
わたしという人間は、胸のポケットの飾り用の白いハンケチを大切にこそすれ、台所の片隅につつましくしている雑巾には目もくれず見下してきたのではないか。そしてそのような私であるのではないか。
しかしこの雑巾こそ、まさしく大慈大悲の法蔵菩薩のおん姿でもあるのではないかと、思ったとたん、たまらない気持になった。・・・・・・・」
あの講演の時も同様のことを仰っておられたように思います。
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、いのちあるものすべてに仏の悟りを開かせる(=本当の安心を与える)ために考えに考え抜き(五劫思惟=ごこうしゆい)、建てられた誓いが四十八願であり、その誓いを成就するため長い長い間修行をして悟りを開かれ、阿弥陀如来となられました。そして、私達のことを、念仏のはたらきで救うと誓われたのです。お念仏(南無阿弥陀仏)には、その修行で得られた徳が、全ておさまっているのです。
もう少し申し上げますと、仏の悟りを開くための修行を法蔵菩薩が私どもに代わってして下さったのです。その法蔵菩薩のはたらきを雑巾に見られたのが、榎本さんであり西元先生だったのです。
お念仏が雑巾のように私のよごれをすべて拭き取るといのは、私の苦しみ悲しみをすべて背負って下さるのがお念仏のはたらきであることをあらわしています。
ですから、私がお念仏させて頂くことで、阿弥陀さまのはたらきを確認し、阿弥陀さまがいつも一緒に居てくださるから、苦しみに押しつぶされることなく、立ち上がる力が恵まれていると言えます。
縁あるごとにお念仏させて頂きましょう。
南無阿弥陀仏