「まかせよ まかせよ」 如来(にょらい)の声(こえ)
「おまかせします」 私の声
(2013年 真宗教団連合「法語カレンダー」7月のことば)
今月の法語は、北海道にある真宗大谷派のお寺の坊守さんで、そのお寺が経営される「斜里大谷幼稚園」の園長をされていた鈴木章子(1941〜1988)さんの『癌告知のあとで』(1989年1月探究社刊)という詩集に掲載されている「呼応念佛」という詩の中の言葉です。その全文を紹介しますと、
「まかせよ まかせよ」
如来の声
「おまかせします」
私の声
「ここにもどってこい」
諸佛の道案内の声
「そこへ行きたい」
私の道確認の声
「事実を知れ 見よ」
先師のお催促の声
「私のおもいでした」
私の無明の破られた声
この詩は
自己中心の思いばかりで生きることこそ幸せであると思い込んでいる私に対し、いのちの現実を教えその思いを破って下さる先達の方々の厳しい教示、進むべき道〈方向〉を教える諸仏方のはたらき、そこに行きたいという私の願いが、阿弥陀仏にまかせることで実現できることを表して下さっているのだと思います。
自分で念仏を称え、その南無阿弥陀仏の音を自分の耳で聞くことで、阿弥陀仏・諸仏・先師の多くのはたらきを聞き、自分の闇が破られていく、そして必ずお浄土に生まれさせて頂くのです。
ですから、私自身が安心して身をまかせることができる本当に頼りになるはたらきこそがお念仏であることを表して下さっているのだと思います。
そして、鈴木さんは次のように綴られています。
《……私がガンになり、父母が亡くなったということは、世間からみれば、不幸つづきということにで、みなさんが気づかい慰めて下さるのですが、私にとっては悲しさとは別の充足感がありました。別離の悲しみは勿論ありましたが、それに増して父母が還(かえ)っていった大いなる生命(いのち)の故郷(ふるさと)に、電気がポッとついた感じで「いつでも還っておいで、待っているよ」という声が聞こえて、木をみても山をみても、雲をみてもその息がきこえるという、不思議な世界に今います。いろいろなものに護られているという充実感で一ぱいです。………》
余命わずかと知らされても、阿弥陀さま(お念仏)のはたらきと、先に浄土へ還られたご両親のお導きの中で、ご自身のいのちの有り様を見つめられ、今ここに自分自身が存在していることの有り難さ素晴らしさ、さらに必ずやってくる死を超えていくことのできる喜びを語られるのです。
そのような視点で自分自身を見つめていく時、ガンが脳に転移し手術をされたあとで詠まれた
「念仏は 私に ただ今の身を 納得して
いただいていく力を 与えて下さる」
という詩が、深い重みを持って、私に迫ってきます。
あらためて、阿弥陀さまのはたらきを聞き続けさせて頂くことの大切さを思うことです。
南無阿弥陀仏