「確かな一足一足が 念仏によって 与えられてくる」
(2013年 真宗教団連合「法語カレンダー」8月のことば)
今月の法語は、真宗大谷派(本山=東本願寺)のご住職である宮戸道雄さん著作の『仏に遇うということ』に出されている言葉だそうです。と申しますのは、私はまだその本を読んだことがなく「宮戸道雄」先生の名前も初めて知らされたからです。
本願寺から出されています『月々のことば』(法語カレンダーの毎月の法語を頂いての法話集)のなかに、宮戸先生の文章が紹介されています。少し長くなりますがそのまま引用させて頂きます。
【 「鶴と亀」とは、これはわれわれ日本人が描いている幸福の象徴ですね。
鶴は千年、亀は万年とか申しまして、長生不死でしょう。だから、めでたいときに使います。 つまり、一時的に欲望が満たされたという話です。人間は一生涯、「鶴と亀」を求めて歩いてきた、ということですね。
そして、その「鶴と亀がすべった」というのですから、私の人生の目標は鶴と亀ではなかったのだ、つまり幸福の追求ではなかったのです。
只一つ自分自身に出遇うためであった。生死のカゴの中をノタウチ回るしかなかった私に、夜明けして、そこから出る、生死を出離(しゅつり)する。このこと一つのための私の人生だったのだと、私の歩んでいく方向と目的がハッキリして、
確かな一足一足が念仏によって与えられてくるということを、「鶴と亀がすべった」と言ったのではないかと思います。 】
この文章は、童謡唱歌の「かごめかごめ」の歌の意味を宮戸先生の解釈で述べられている部分だと思います。
少し調べてみますと、この「かごめかごめ」の歌については、不思議な意味不明の歌として、取り扱われています。そして、どちらかといえば、神の心・力を表したものであると示されているのです。
それと別に、宮戸先生は、ご自身のこの歌に対する思い味わいを仏教の考えを基本として述べられているのだと思います。
阿弥陀さまのはたらき(お念仏)を土台に持って、世間の人が、何を言おうとも、自分に指針を与えて下さる多くの言葉や出来事を、自分に安心を与えて下さる阿弥陀さまのはたらきを表すものとして受け止めておられるのだと思います。
そのような受け止めができるのも、阿弥陀さまのはたらきなのだと思います。
自分の都合(煩悩)でしかものを考えることのできない私、そのために多くの苦悩を抱えて生きる私に対して、生まれてきたことの意味を教え、安心して生きることのできる世界を開いて下さったのが阿弥陀さまなのです。ですから、阿弥陀さまのはたらきを聞き続けさせて頂くことが大切なのだと思うことです。
「確かな一足一足が念仏(阿弥陀さまのはたらき)によって与えられる」とは、念仏して阿弥陀さまとともにある自分を確認し、そのことにより、自分自身がどのような状態であろうとも、大丈夫・安心だと言える人生が恵まれているということなのです。
南無阿弥陀仏