「称名(しょうみょう)とは み名(な)を 聞(き)くことであります」
み仏(ほとけ)の み名(な)を称(とな)ふるわが声(こえ)は
わが声ながら たふとかりけり」
(2014年 真宗教団連合「法語カレンダー」表紙と1月のことば)
西暦2014年・平成26年の幕開けです。
今年6月6日には、西本願寺の即如ご門主(大谷光真)さまからご長男の光淳さまに法灯が継承され、第25代専如ご門主が誕生されます。
『本願寺新報』1月1日号には専如さま(現在の新門さま)のご法話が掲載さています。その中で、
《親鸞聖人は阿弥陀さまの救いをあらわす「摂取(せっしゅ)」という言葉を「ものの逃ぐるものを追わへとるなり」(『註釈版聖典』572頁脚註)と解釈されました。私たちはすでに阿弥陀さまのはたらきの中にあると述べましたように、煩悩を抱えて阿弥陀さまのはたらきに気付くことが難しい私たちであるけれども、阿弥陀さまは真実に気付けよとはたらいてくださっています。そのはたらきかけが、「南無阿弥陀仏」のお名号であります。》
と、申されています。
新門さまがお示し下さいますように、念仏(南無阿弥陀仏)は阿弥陀さまのはたらきかけです。つまり、私たちが自分の口で称える念仏ではありますが、それが如来のはたらきかけで念仏しているということです。
さて、今年の真宗教団連合のカレンダーの表紙は足利浄圓師、1月は甲斐和里子さんの言葉です。
両方の法語に出されている『み名』とは、『南無阿弥陀仏』のことですが、阿弥陀さまのおはたらきを喜 ばれている方々は、私が自分の力で自分の口で称えている念仏であっても、それは、阿弥陀さまからのはたらきかけで称えているのであり、口から出た南無阿弥陀の声が阿弥陀さまそのものであるとい う味わいをされています。
このように頂きますと、阿弥陀さまの名前を称える「称名(しょうみょう)」も阿弥陀さまが今ここにはたらいて下さってあることを自分の耳に聞くためのものであるという思いが出てきます。
そして、もののいのちを食べ、ひとの悪口や不平不満、愚癡を言ってばかりいるこの自分の口から、阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏」のお念仏になって出て下さると受け止めさせて頂く時、自分の声でありながら尊く有り難いものだと味あわせて頂くことです。
何時で何所でも何が起こっても絶対私を捨てることないはたらきそんな阿弥陀さまに抱かれている私たち一人ひとりのいのちです。
そんないのちを大切に思い生きていこうとすることが本当の安心につながるのでありましょう。
南無阿弥陀仏