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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

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浄土真宗とは

今月の法話

2014年2月の法話
    「人は 法を求めるに止(とど)まって
            法に生きることを 忘れている」
(2014年 真宗教団連合「法語カレンダー」2月のことば)
 本願寺出版社から出ている「高校生からの仏教入門―釈尊から親鸞聖人へ―」(小池秀章著)という本があります。

その本の最初に
「仏教を学ぶ」ということは、いったいどういうことなのでしょう。
 仏教を学問・知識として、客観的に学ぶということも悪いことではありませんし、必要な場合もあります。しかしそれだけでは、本当の意味で仏教を学んだことにはなりません。
 例えば、「鏡を見る」と言った場合、「丸い綺麗な鏡だった」と、鏡の外見を見て満足する人はいないでしょう。「鏡を見る」ということは「鏡に写った自分の姿を見る」ということのはずです。「仏教を学ぶ」ということもそれと同じで、仏教とはこういう教えだと客観的に学ぶだけでは、その外見を見ているだけに過ぎません。仏教の教えを学べば学ぶほど、自分の姿が明らかになる、自分の生きる意味と方向が定まってくる。そのような学び方でなければ、本当の意味で仏教を学んだことにはならないのです。

 引用が長くなりましたが、本当に小池先生の申される通りだと思います。自分も仏教を学んできたつもりですが、自分の態度を振り返ってみるとお恥ずかしい限りです。
 2月の法語も、また、仏様の教え(仏法)を知ることも大事なことではあるがその教えに生きることが本当に大切であることを示して下さっているのだと思います。

 表題の法語は、真宗大谷派の僧侶 高光大船さん(1879年〜1951年)の言葉です。
 私たちは、仏法を求める者として、仏の悟りを自分の知識として理解しようとしがちですがそういう姿勢でいると、自分の知識の上で仏法をとらえることになってしまいます。
 それは、仏法を自分中心に自分の都合のよい(自分にとって損か得かの判断で)解釈してしまうことになるのではないでしょうか。
 悟りを開くためにと、自己中心的になり、かえって仏法(悟りの心)から離れていくことになります。自分だけが悟りを開ければよいという思いに支配されていくかもしれません。 
 
 高光先生は「生活のほかに信仰はない」とよく言われていたそうです。
 「仏法に生きる」とは、仏の悟りの光に照らされて生活している自分であるという思いを持って生きることではないでしょうか。
 自分がどんな人間であっても、世間からつまはじきされるような者であっても、この私を見捨てることなく抱き続けて下さっている阿弥陀様のはたらきこそが仏法なのです。
 「法に生きることを忘れている」とは、阿弥陀様のはたらきを生活の中心にして生きることの大切さを説かれた言葉だと思います。
 阿弥陀様のはたらき(願い)を聞かせて頂き、自分の生活の指針を聞かせて頂くことが本当に大切なことだと思います。
 しかし、「法に生きることを忘れるのも人間(私)だ」との教示とも受け取れるのです。だからこそ、縁あるごとに仏法を聞かせて頂くことを大切にさせて頂きたいと思います。
南無阿弥陀仏