「帰ってゆくべき世界は
今遇(あ)う光によって知らされる」
(2014年 真宗教団連合「法語カレンダー」3月のことば)
表題の法語は、浄土真宗本願寺派の僧侶で龍谷大学の教授をされていた浅井成海先生(1935年〜2010年)著の『法に遇う 人に遇う 花に遇う』(1986年本願寺刊)という書物の中の言葉です。
そこには次のように書かれてあります。
〈親鸞〉聖人は、われわれの帰ってゆくべきみ仏の世界を、彼岸=涅槃界(ねはんがい)としてあわらされています。しかし彼岸は、光の世界であり、つねにわれわれ一人一人を照らし続ける世界でもあると説かれます。帰ってゆくべき世界は、今遇う光によって知らされるのであります。見るもの聞くものひとつとして、如来の仰せによらざるものはないと味わうことができるのであります。自分の力で必死に生きてきたと思いがちですが、再度「自分の力のみで生きてきたのか」と問いかけてみると、あらゆるものに生かされる私でありましたと、縁起の理法にうなずかざるを得ないのであります。……(略)……光に照らされ、光の中を自然と共に生き、あらゆる人びとと共に歩く喜びを、深くかみしめたいものです。
引用が少し長くなりましたが、上記のように、彼岸・涅槃界つまり阿弥陀さまの極楽浄土が、私たちが帰ってゆくべき世界であると親鸞聖人は示されます。そして、そのこと私たちに知らしめて下さるのが阿弥陀さまの光のはたらきであるということです。
お正信偈に
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅうちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
《極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障(さ)えて見たてまつらずといえども、大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまうといえり》
と、示されていますように、私がどういう状態であろうとも、阿弥陀さまの教えに逆らうようなことがあろうとも、絶対に見捨てることなくはたらき続けて下さるのが阿弥陀さまであるということです。
私たちのことを阿弥陀さまが照らし続けて下さっているということは、私自身が阿弥陀さまから見れば、お正信偈に表わされるように、「極重の悪人」であり、「間違いだらけの私」であるから放っておくことができない存在ということになります。だからこそ、色々な悩み苦しみを抱えて生きていかなければいけないのが私たちなのです。
そんな私たちに生きる方向性を与え、今生きていることの有り難さを教え、安心して生きることのできる世界を与えて下さるのが阿弥陀さまの光のはたらきなのだと思います。
「南無阿弥陀仏」と口に称えることで、阿弥陀さまがここにはたらいて下さっていることを確認し、縁あるごとに阿弥陀さまのはたらきを聞かせて頂きたいものです。
南無阿弥陀仏