「一切は 縁によって生まれ
縁においてあり 縁において去っていく」
(2014年 真宗教団連合「法語カレンダー」4月のことば)
今月の法語は、真宗大谷派本福寺の住職をされていた宮城(みやぎ しずか)先生(1931年〜2008年)の言葉です。
言葉の意味としては、
「この世界のすべてのものは、縁があってこそ生まれることができた。縁があるから今ここに存在している。そして、縁があるから去っていくのである」
と、いうことになります。
ものが起こったり出来たりするのは、因縁によると教えるのが仏教(お釈迦さまの教え)です。因縁によるというのは、因は結果を生まれさせる直接の原因、縁はそれを助ける外的な条件のことです。
ですから、今月の言葉は、この世界中にあるものは、生まれるための原因と条件が整って生まれ存在している。そしてそのものが無くなっていくときもそういう条件があって無くなっていくということを教えて下さっている言葉だと思います。
それが正しく物事を見ていく見方だと思います。
ところが、そういう風に物事を見ていけないのが人間ではないでしょうか。
2014年3月27日の朝日新聞の夕刊のトップニュースは「袴田事件 再審認める」という記事でした。
新聞によれば、袴田事件は、1966年に静岡県の一家4人が殺害放火された事件で、その犯人として、袴田巌さんが逮捕され死刑が確定していました。しかし、袴田さんのお姉さんや袴田さんの無罪を信ずる支援者の方々の粘り強い活動で、再審の扉を開けたのです。
静岡地裁の裁判官は、証拠となる衣類を捏造した疑いがあると断じています。
事件の真相を正しく見ていくことは本当にむつかしいものだと思います。しかし、それができれば、無実の人を犯人にすることがなかったのです。
これは、他人のことではなく自分自身の問題でもあります。ものの見方として自分の都合の良いように見ていく私自身がいます。すべての縁を見ることもできないのに全部理解しているような気持になって物事を判断してしまう。相手の気持ちになってと言いながら自分の知識で判断し自分の思いを押し付けていることも多いのです。
このようなものの見方・考え方が、自分を苦しみの底に落とすことを教えて下さるのも仏法です。自分自身の力だけでは到底その苦悩の底から抜け出すことができないのではないでしょうか。
すべての縁を見通していくことができるのが仏の悟り智慧です。阿弥陀さまも悟りの智慧で私の苦悩のすがたを見抜き私にはたらきかけ支え続けて下っているのです。そのことを確認するのが「南無阿弥陀仏」と口に称えることです。
南無阿弥陀仏