「きのう聞くも 今日またきくも
ぜひに来いとの およびごえ」
(2014年 真宗教団連合「法語カレンダー」5月のことば)
今月の法語は、現在の山口県下関市六連島(むつれじま)に生まれられた「お軽(かる)」さん(1801年〜1856年)の言葉です。
お軽さんは、幼い頃は勝ち気な性格で、非常におてんばであったそうです。19歳の時に、おとなしく実直な「幸七」という青年と結婚しました。夫婦仲もよく、子供にも恵まれました。しかし、その幸せな生活が夫の浮気によって崩壊したのです。
自分を捨てた夫と相手の女性に対して、お軽さんは激しい憎悪を抱きました。
そんな時に、六連島の西教寺の住職さんから「こんなことがなければ、あんたは仏法を聞くような人ではない。だから、幸七さんの浮気はあんたのためにはかえって良かった」と言われ、このことを縁にして仏法を聞くようになったそうです。
このような縁があって仏法を聴聞(ちょうもん)することになったお軽さんは、聴聞の深まりにしたがって、夫や相手の女性ことを激しく憎悪して「地獄に落ちろ」と憎んでいる自らの姿こそが、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)で「地獄必定(じごくひつじょう)」の身であると気づかされていかれたのです。
そんな自分が、どうすれば救われていくのかと悩み、聴聞し続ける中で、「無条件の救い」という阿弥陀如来の大悲を知らされ気づかされて、阿弥陀如来の救いを素直に受け入れられるようになられたのです。
その救いとは、阿弥陀如来の「そのまま来いよ」「必ず連れていくぞ」と、よび続けて下さる声によって、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の自分がすでに許されていることに気づかされたお軽さんであったのだと思います。
奈良県に中川静村さん(1905年〜1973年)というご住職がおられました。先生はたくさんの念仏の詩を残されましたが、その一つに「むこうがわ」(『詩集 そよ風の中の念仏』所収 百華苑刊)という詩があります。
わすれ とおしの こちらを
おぼえ とおしの むこう
おがんだ おぼえのない こちらを
おがみ ぬいてる むこう
(中略)
たのんで いるのは むこうがわ
つかんで いるのは むこうがわ
すてられ ないのは むこうがわ
やっと しあげて いただいた
となえる だけの おねんぶつ
あわせる だけの このりょうて
(以下略)
「むこう」とは阿弥陀さまのことです。その阿弥陀如さまの大慈悲は私たち一人ひとりのありのままを「そのまま救う」とはたらいて下さっているのです。
昨日聞いた念仏も、今日聞いた念仏も、私を全部受け入れて「そのまま来いよ、是非来いよ」の親(阿弥陀如来)の喚(よ)び声であり、それを喜ばれた歌が、今月の言葉です。
晩年ですが、阿弥陀さまのおはたらきの喜びに満ち溢れたお軽さんは、憎んでいた夫を許し、6人の子供たちとともにご法座にお参りし聴聞する生活を送られたそうです。
(お軽同行のことについては本願寺出版社刊「心に響くことば」を参照しました)
南無阿弥陀仏