「深(ふか)い悲(かな)しみ
苦(くる)しみを通(とお)してのみ
見(み)えてくる世界(せかい)がある」
(2014年 真宗教団連合「法語カレンダー」6月のことば)
今月の法語は、飛騨高山の真宗寺院、速入寺の坊守さんであった平野恵子さん(1948年〜1989年)の『子どもたちよ、ありがとう』(法蔵館刊)の中“お母さんの子どもに生まれてくれてありがとう”と題された一節の文中の言葉です。
私は、今月の法語を読んで、
「深い悲しみや苦しみを味わったことのない者には、見えないものが沢山あるということ」とか「苦労を知らない者はダメだ。深い悲しみや苦しみを味わったことのない者は阿弥陀さまに遇うことができない」と、いうことを言っておられるのだという思いを持ちました。
つまり、宗教は苦労・苦悩を知らない者には、分からないということを言っておられるのだと思ったのです。
浄土真宗ということで言えば、苦悩する者でなければ、阿弥陀さまの救いに遇うことができない。と、言っておられるのではないかということです。
ところが、阿弥陀さまの救いの対象は、いのちあるものすべてです。人間には様々な状況があります。すべての人間が苦悩していくかどうかわかりません。生まれて間もなく亡くなる人もいます。病気で昏睡状態のまま生を終わっていかれる方もいます。心身の障害で物事を認知できない方もおられます。
苦悩ということを救いの条件にしてしまうと、阿弥陀さまのはたらきに逆らうことになりかねないのです。
ところで、今月の言葉は、「人間は苦悩しないとだめだ」と、言っておられるのかということですが、実際にこの言葉の書かれた『子どもたちよ、ありがとう』を読んでみますと、そういう意味ではありませんでした。
引用された言葉だけを見て、すべてわかったような思いになるのは、とても危ないことだと改めて知らされたことです。
『子どもたちよ、ありがとう』には、
「たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに変わる時が、きっと訪れます。深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。そして、悲しむ自分そっくりそのまま支えて下さる大地のあることに気付いて下さい。それが、お母さんの心からの願いなのですから」と、書かれています。
平野恵子さんは、子供3人を残し、癌に蝕まれ、41歳という若さで逝去されました。
母親が死ぬことで、子供たちが多くの苦しみ悩みを背負うであろうことに対する言葉であるということと、同時に、子どもたちのことで苦悩することを身に受けてきた自分が、その子どもたちのお陰で多くのことを知らされ、新しい世界が開かれたことに対する喜びの言葉であったのではないかと思います。
苦悩する自分をそのまま引き受けて下さるはたらきが南無阿弥陀仏なのです。何があろうとも、支え続けて絶対に離すことない阿弥陀さまのはたらきです。そのはたらきの中にいる私であることを大切にしたいものです。
南無阿弥陀仏