「 お念仏(ねんぶつ)は
讃嘆(さんだん)であり 懺悔(さんげ)である 」
(2014年 真宗教団連合「法語カレンダー」9月のことば)
今月の法語は、真宗大谷派の大学者、金子大榮(かねこだいえい)先生(1881年〜1976年)の『金子大榮対話集』(弥生書房刊)に出されている言葉だそうです。
今、実際にこの本が手元にありませんので、本願寺刊の『月々のことば』を手掛かりに書かせて頂きます。
さて、この『対話集』の中に「お念仏は讃嘆であり、懺悔であるということがあります」と語られ、その内容を
久遠劫来(くおんごうらい)迷うてきた、いま初めての迷いではないというようなことはみな懺悔の言葉である。そして弥陀の本願というものがあって、それに遇(あ)うことができたという喜びが讃嘆になっている。そういうふうな立体的なものである。″
と、述べられているそうです。
「讃嘆」ということは、ほめたたえることです。何をほめたたえるのかといいますと、上の文章からいえば、弥陀の本願ということになります。弥陀の本願とは、今ある私たち一人ひとりの「いのち」を必ず救うというはたらきのことです。
その阿弥陀仏のご本願のはたらきに私どもが遇わせていただくことができるのは、私自身の力ではなく、ご本願そのもののはたらきによると、親鸞聖人の教えてくださいました。
念仏とは、阿弥陀仏の名を称えることですが、それは、阿弥陀さまの名を呼んでこっちに向いてもらおうというものではなく、阿弥陀さまのおはたらきを讃える言葉であったのです。そして、称名念仏をさせて頂くこともまた阿弥陀さまのはたらきなのです。
そして、お念仏は懺悔であると言われます。(懺悔は仏教では「さんげ」と読みます)
懺悔は「罪過を悔いてゆるしを請うこと」(真宗新辞典)です。
自分がいま迷いの世界にいるということは、遠い遠い昔から自分の煩悩によりおかした罪の結果、迷い続けて自分自身が今も迷いの世界に居るということを悲しく思うことが懺悔であるとお示しくださっているように思います。
そのような懺悔の心を持たせて頂くのも阿弥陀さまのはたらきがあるからです。
阿弥陀さまに照らされて、実際には、阿弥陀さまのはたらきを繰り返し繰り返し聞かせて頂く中に、自らの罪の深さや本当のすがたを知らされるのです。
しかし、それでも、自己中心的なものの考え方を捨てられずに、自分の都合のよいほうへ生きていく自分自身、それが迷いを深めていると聞かされながらもそのまま受け入れることもできない私。
こんな私の相(すがた)を見抜いた上で、本当の安心を与えたいとはたらいてくださる阿弥陀さまなのです。その阿弥陀さまのはたらきそのものが、お念仏となってくださったのです。
お念仏させて頂く中に、阿弥陀さまのおはたらきを味あわせて頂きたいものです。
南無阿弥陀仏