「 衆生(しゅじょう)に
かけられた大悲(だいひ)は
無倦(むけん)である 」
(2014年 真宗教団連合「法語カレンダー」11月のことば)
今月の法語は、京都の大谷大学で1980年から6年間、学長を務められました廣瀬杲(ひろせたかし)先生(1924〜2011)の言葉です。
浄土真宗のご開山(かいさん)親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ=お正信偈)』の中に、
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
【極重の悪人はただ仏を称すべし、われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)えて見たてまつらずといえども、大悲(だいひ)倦(ものう)きことなく、つねにわれを照らしたまうといえり】
と、阿弥陀如来(あみだにょらい)のはたらきをお示しくださいます。
またご和讃には
煩悩に眼さえられて 摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり
と詠まれています。
親鸞聖人のこれらのお示しは、源信和尚(げんしんかしょう)の『往生要集(おうじょうようしゅう)』というお書物の言葉を引かれてのお示しです。
源信和尚(941〜1017)は比叡山の恵心院(えしんいん)におられたので恵心僧都(えしんそうず)とも言われた方です。44歳の時に『往生要集』を著わされ、当時の苦しみ多い人々にこの穢れた世界を厭い離れ(厭離穢土
おんりえど)、阿弥陀如来の浄土を欣(よろこ)び求める(欣求浄土 ごんぐじょうど)ことを勧められました。
「厭離穢土欣求浄土」現実逃避に聞こえる言葉です。「このいやな現実から逃げて、早く安楽の浄土に行きましょう」と、自死を勧めているようにも受け止められそうな言葉です。
しかし、私はそうではないと思います。何故なら、阿弥陀さまは、今ここにある私に休むことなくあきることなくはたらき続け、支えつづけてくださっているのです。
今月の言葉はまさにそのことを表してくださっています。そういたしますと、今の自分に安心を与えて下さるはたらきであり、自分が生きていることを本当に大切にしてくださっているのが阿弥陀さまだと知らされます。
厭離穢土とは、この現実と自分を阿弥陀さまのはたらきの中で、何が厭うべきものなのか、離れるべきものなのかをしっかり見据えよ、ということではないかと思われます。
欣求浄土とは、その阿弥陀さまのはたらきをよくよく聞かせていただくことではないでしょうか。
自分の口で称え、自分の耳に聞くお念仏は、大悲無倦の阿弥陀さまのはたらきを確認させて頂く言葉であるとも思うことです。
南無阿弥陀仏