「永遠(えいえん)の拠り所(よりどころ)を 与えてくださるのが
南無阿弥陀仏の 生活である」
(2014年 真宗教団連合「法語カレンダー」12月のことば)
今月の法語は、東京上野の坂東報恩寺(ばんどうほうおんじ)の住職で京都の大谷大学の教授をされていた坂東性純(ばんどうしょうじゅん)先生(1934〜2004)の言葉です。
先生のことをネットで検索していたら次のような文章に出会いました。
罪悪深重ということ <<坂東性純>> 1996.11.18
最近のこと、床の中でカード・ラジオに耳を傾けていましたら、ある人が、「画龍点睛(がりゅうてんせい)」という漢字のことに言及されました。「龍を描いてひとみを入れる。」 という意味のこの言葉は、ものごとの最後の仕上げを指すのだそうです。龍の画で一番最後にひとみを入れることになるが、これに失敗すると、画全体が反古(ほご)に なってしまうとのこと。このことは以前聞いて知ってはいるつもりでした。しかし、この時この方の言われた「ひとみとは目偏に青と書きます」の一言を耳にした途端、思わず驚いて飛び上がってしまいました。
起きてすぐ辞書に当たって調べてみると、たしかに「ひとみ」は睛と書くのです。ところが教壇生活三十年あまりの長い間、私は日偏に青「晴」の字を「ひと み」とも読むと思い込んでいたのです!この一字の誤りを百人の人がうけとり、何百人の人に伝えたとしたら、いったい何層倍の誤りが世の中に撒き散らされる ことでしょうか?
……(略)……
教壇に立つ者の責任の重大さと、無意識に犯す罪の深さに畏れおののくばかりです。
しかも、自分が気づかずに発した一言が周りの誰かに致命的な心の傷を負わせたことはなかったかどうか・・・等々考え出したら際限がありません。
…(略)…仏教で「極悪深重の凡夫」という言葉が使われているのを私はよく知っていました。しかし、それらは誰か他の人のことで自分とは全く関係がないと思っていたのです。しかし、実際はそうではないようです。他ならぬこの私が、これまで長い長い間気付かずに犯してきた無意識の罪のはかり知れないことを見透かされたコトバなのでした。意識に上がらぬだけ無明(無知)の罪は深くて重いようです。
〈以上〉
先生の生真面目な性格があふれている有り難い文章です。自分自身が正しいと思い込み間違いを犯す私どものことをお示しくださっています。
この間違いだらけの私のことを絶対に裏切らず、常に私のことをいだき、支えてくださっているのが阿弥陀如来です。その阿弥陀さまのことを思って、阿弥陀さまがいつも一緒にいてくださることを喜んで念仏するのが浄土真宗の教えでありましょう。
今月の言葉は、縁あるごとに南無阿弥陀仏を称えて、阿弥陀さまを頼りとする生活には、何時どんなことがあっても大丈夫だという安心を与えられていることをお示しくださったものです。
南無阿弥陀仏