「智慧(ちえ)・慈悲(じひ)の はたらきそのものが
『仏(ぶつ)』なのです」
「称(とな)えるままがつねに 御本願(ごほんがん)の
みこころを聞(き)くことになる」
(2015年 真宗教団連合「法語カレンダー」表紙と1月のことば)
あけましておめでとうございます。
「正月(元旦)や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」
この歌は、室町時代の禅僧一休禅師の作とされています有名な歌です。
実際には、一休さんの作ではないということらしいのですが、それはともかく、お正月で、「めでたいめでたい」と言ってはいるものの、実際には「死」に確実に近づいていることには間違いなく、「今ここにある命の尊さに目覚めなさい」とのお示しだと受け取らせて頂くことです。
つまり、年の初めに、今ここに生きている、いのちを戴いている自分自身こそが、とても尊く有り難い存在であることに気付きなさいということです。一人ひとりのいのちがすべてそうなのですから、自分自身を大切にし、他の人々を大切にすることが仏さまの教えであります。
ところがそうはいかないのです。自分の都合で他の人々を傷つけ、自分自身さえも傷つけていくのが私という存在であります。
そんな私どものことを放っておけないのが阿弥陀さまなのです。
2015年真宗教団連合の法語カレンダー表紙の言葉は、昨年12月に引き続き坂東性純先生の言葉です。
私達が礼拝している仏さまは阿弥陀さまの木像や掛け軸の絵像や名号(六字=南無阿弥陀仏・九字=南無不可思議光如来・十字=帰命尽十方無碍光如来六字)ですが、坂東先生はこれを「じっとしていらっしゃる方便の仏さま」と申されています。
私たちは、目に見える姿かたちによらなければ受けとめることができないため、姿かたちに示してくださったのが、お立ち姿の木像であり絵像であり、文字として表してくださったのが字号です。
しかし、仏さまの仏たるところは、そのはたらきであります。それが智慧と慈悲のはたらきです。智慧はこの私に本当の姿を教え、慈悲は私のことを絶対に捨てることがない安心のはたらきです。
阿弥陀さまは「音の仏さま」になられたといわれる方がおられます。それは、南無阿弥陀仏と称える声が阿弥陀さまそのものだということです。
いつでもどこでも条件さえ整えば「南無阿弥陀仏」と称えることができるのは、阿弥陀さまが私たちに向かって「南無阿弥陀仏を称えてくれ」と願い、はたらいてくださっているからです。
つまり、私が念仏することは、阿弥陀さまの願いであり、私が阿弥陀さまのはたらきのなかにあるということです。すでに阿弥陀さまに包まれている私なのです。
ですから、自分の都合(煩悩)で自分を縛り迷いの中にある私たちのことを放っておけない阿弥陀さまなのです。
阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきの中にある自分であることに気付かせて頂くのです。
南無阿弥陀仏を称えさせて頂くことが、阿弥陀さまのおこころを聞くことになるのだと思います。
南無阿弥陀仏