(2015年 真宗教団連合「法語カレンダー」表紙と3月のことば)
今月の言葉は、京都大学ウィルス研究所所長をされていた東昇(ひがしのぼる)先生(1912〜1987)の言葉です。
東先生の著書に「人間が人間になるために」(第一書房1974年刊)という書物があります。その中に、親鸞聖人(浄土真宗)とのであい、科学と宗教についてなどのことが書かれています。
少し長くなりますが引用させて頂きます。
『さて、人生は人間いかに生くべきか、をたずねるより、むしろ人間いかに死すべきか、を問うところであるように、この頃思うようになってきました。いかに死すべきかが解けましたら、いかに生きるべきかは、おのずから解けるものでしょう。
私どもは、安心して死ねて、はじめて生きることに安心を得るのではないか。安心とは、もしそれがなかったら、死ぬにも死ねないということです。死ぬこともできないのでは、生きるということは、なおさらできない、というものです。死に安心、そして生に安心。生死しながら生死に安心する。浄土こそその拠点であります。
―――(中略)――― 金子大栄先生はくりかえし説かれます。「死の帰するところを以て、生の依るところとする」。浄土は死んでからだけ、おちつくところではない。それを以て、現実に、この世における生の依るところとするものであります。言葉を換えて申しますと、死んで往ける道はそのまま生きて行く道であります。浄土は死生の拠点であります。
この世は、人間苦の世界であるけれども、人間苦の生活は、浄土の光にふれれば安らぎに転ぜられます。往く浄土で、なぜ心安らぐのか。親のまつ故郷へ帰るのだからです。親鸞聖人の教えは、現実に光を与える宗教であります。』
(下線部は今月の言葉)
私はこの東先生の文章を読んで、自分がこのような深い考えのないことを恥ずかしく思いました。生まれること(生きていること)と死ぬことは、ひとつごとであることは、仏教の教えであることは理解しているつもりですが、やはり、自分の都合のよい方へ生きることばかりに気を取られて死を見ていないのが、本当の自分の姿だと知らされた思いがしました。
しかし、そんな人間が安心して生きていけるのが、浄土真宗ではないかという思いもあります。
「しんじんのうた」(正信偈意訳)に
まどえる身にも信あらば
生死(まよい)のままに涅槃(すくい)あり
ひかりの国にいたりては
あまたの人を救うべし
と、示されています。
迷いの中に生きて自分自身の本当の姿に気づかない者であっても、必ず救うと約束してくださる阿弥陀さまなのです。
いつ死ぬことになろうとも、どこで死ぬことになろうとも、仏の悟りを開かせていただき、多くの人々を救うはたらきをすることができると、受け取らせて頂けるのは誠にありがたいことではないでしょうか。
そういう私の生きていく道が、阿弥陀さまによって与えられているのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏