(2015年 真宗教団連合「法語カレンダー」4月のことば)
今月の言葉は、京都の大谷大学で学長をされていた廣瀬(ひろせ)杲(たかし)先生(1924〜2011)の言葉です。
さて、?私自身に出会う″とはどういうことでしょうか。
今月の言葉は、先生の著書『真宗入門「歎異抄」のこころ』(東本願寺出版部刊)の中に出されている言葉だそうです。
法語カレンダーの解説と法話の書かれた「月々のことば」(西本願寺刊)の中には以下のように書かれています。
廣瀬師は「私自身」との出会いについて、次のように述べられます。
眼が眼自身を見ることができないように、人間は人間自身の正体を知ることができません。しかし知る能力を持った人間は、人間自身の正体を知らないままで過ごすことはできません。では何が人間自身の正体を知らせるのかといえば、如来よりたまわった信心の智慧であるとされ、この信心の智慧によって自分自身の正体を知らされることが自分自身との出会いであるとされます。また自分自身と出会って掛け値なしの自分が知らされ、そのことにうなずいて生きることが救いであるといわれます。それは縁に会った事実を受けとめて生きることであるといわれます。
引用が長くなりましたが、私が私自身に会うということは、掛け値なしの自分が阿弥陀さまのはたらきによって頂く信心の智慧に知らされることだといわれます。
親鸞聖人は、ご和讃に
無慚(むざん)無愧(むぎ)のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀(みだ)の回向(えこう)の御名(みな)なれば 功徳(くどく)は十方にみちたまふ
(罪を恥じる心が全くない私には、真(まこと)の心もありませんが、阿弥陀如来のはたらきで南無阿弥陀仏を称えさせていただく身となりました。それは、南無阿弥陀仏があらゆる世界に響きわたり、念仏の功徳が満ちあふれているからです)
と、お示しくださいます。
親鸞さまは阿弥陀さまのはたらきを聞かれる中にご自身の恥かしい掛け値のない姿を知らされたのでありましょう。そして如来さまにより示された自分のすがたを、そのまま素直に受け入れられた親鸞さまであったということだと思います。
私などは人から指摘され自分でそう思っていても、自分のことを批判されることは中々受け入れたくないものです。ですから、本当の自分に出会うことができない私であるかもしれないのです。
だからこそ、私がどんな状況であっても、この私をすべて包んでくださる、そのまま抱いてくださる阿弥陀さまのはたらきがあればこそ生き死んで往くことができるのです。
そういう意味で、聞法のご縁を大切にしなければ勿体ないことだと思います。
南無阿弥陀仏