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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

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浄土真宗とは

今月の法話

2015年12月の法話
  「 生活の中で 念仏するのでなく
           念仏の上に 生活がいとなまれる 」
(2015年 真宗教団連合「法語カレンダー」12月のことば)
 今月の法語は、石川県の真宗大谷派浄泉寺の住職をしておられた和田稠(しげし)先生の
『信の回復』(東本願寺出版部刊)という本からいただかれた言葉です。

 35年以上前になるかと思いますが、和田先生のお話を聞かせて頂いたことがありました。確かスマートな体つきで優しそうな感じの先生でしたが、そのお話に先生の内心の強さを感じさせて頂いたような記憶があります。お話の詳しい内容は思い出せないのですが、真面目で真摯な先生のお姿に感動を覚えた事でもありました。

 『信の回復』という本もその時、購入させて頂いて読ませて頂いたのですが、探してみたのですがどこへしまい込んだのか見当たりませんでした。
 又、探して読み直してみたいと思います。

 さて、今月の言葉は「阿弥陀さまのはたらき(念仏)が自分の生活の中心軸になっているか?」ということを問うておられる言葉だと思います。
 私たちは毎日生活をしています。「生きていく」ために活動することを「生活」というのでしょう。『広辞苑』には「生存して活動することすること。生きながらえること。くらしてゆくこと……」と、示されています。
 その生活の中で「南無阿弥陀仏」と口に出して念仏するのは、お仏壇の前でお参りしている時やお葬式、お寺やお墓にお参りする時くらいかなと思います。(お参りの時でも念仏しない人もいますが……。)
 私達は、日々の生活の中で念仏する場面をいつの間にか自分の中で決めています。それが
「生活の中で念仏する」と言われることの意味でしょう。
 
 今月の言葉は「生活の中で念仏するのではなく、念仏を基礎にして生活をいとなむことが、お念仏を喜ぶ者の生活の姿である」と示してくださいます。それは、「念仏を生活の軸にして生きていってください」ということです。では、「念仏を軸にして生活をする」ということはどういうことでしょうか。
 
 親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)のお手紙(『親鸞聖人御消息(ごしょうそく)』)に次のような一文があります。(本願寺から出された現代語版で書かせて頂きます)

 「そもそもみなさんは、かつては阿弥陀仏の本願も知らず、その名号を称えることもありませんでしたが、釈尊と阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれて、今は阿弥陀仏の本願を聞き始めるようになられたのです。以前は無明の酒に酔って、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三毒ばかりを好んでおられましたが、阿弥陀仏の本願を聞き始めてから、無明の酔いも次第に醒め、少しずつ三毒も好まないようになり、阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです」(『親鸞聖人御消息(現代語版)』

 阿弥陀さまのはたらき(念仏)は、私のすがたを教えてくださり間違いだらけの私を大事にして包んで下さっているのです。その阿弥陀さまのはたらきを繰り返し聞かせて頂くことで、自然に自分が変わっていくと親鸞さまは申されます。
 
 お念仏中心の生活をさせて頂くことをすすめられるのが今月のお言葉です。
「生活とは、生命(いのち)を活(い)かすと書く。私の頂いた大切ないのちを活かすことが、本当の生活である」以前に聞かせて頂いたことがあります。私のいのちを活かしてくださるのがお念仏のはたらきです。 
南無阿弥陀仏