(2017年 真宗教団連合「法語カレンダー」9月のことば)
『願力無窮(がんりきむぐう)にましませば 罪業深重(ざいごうじんじゅう)もおもからず
仏智無辺(ぶっちむへん)にましませば 散乱放逸(さんらんほういつ)もすてられず』
「阿弥陀仏の本願のはたらきはきわまりなく、どれほど深く重い罪もさわりとなることはない。阿弥陀仏の智慧のはたらきは果てしなく、散り乱れた心で勝手気ままな行いをするものであっても見捨てられることはない。」『三帖和讃(現代語版)』(本願寺出版社刊)より
今月の言葉は、上のご和讃の下線部になります。このご和讃は、『正像末和讃』の中の一首です。このご和讃の内容を窺ってみたいと思います。
現代語版に示されますように、「阿弥陀仏の願力」つまり「本願のはたらき」は、きわまりがない(限界がない)ということです。
限界のないはたらきですから、そのはたらきは、あらゆる人々に対してのものです。「必ず救う=絶対安心の仏のさとりを開かせる」という願い(本願)をたてられて、あらゆる空間で、あらゆる人々にはたらきかけておられるのが阿弥陀仏ということになります。
そして、限界がないということは、「罪業深重もおもからず」と言われるように、どれほど深く重い罪を持っている者でも、その罪が妨げになることなく必ず救われるということです。阿弥陀仏の願力は、重い罪を持った私たち一人ひとりをそのまま包み込んでくださる大いなるはたらきをされているのです。
つぎに、「仏智無辺」とは、阿弥陀仏の智慧のはたらきは、果てしなく、限定なく、広大でどこまでも至り届いているということなのですが、仏説無量寿経に阿弥陀仏の智慧について五つの智慧(五智)が説かれています。
本願寺出版社刊の『浄土真宗辞典』には、
「仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智」の5つであり、この中、仏智は総名で他の四智は別名であると示され、それぞれの意味は、以下のように書かれています(記し方は変えています)
五智(ごち)
@ 仏智 如来の智慧
A 不思議智 思いはかることのできない智慧
B 不可称智 たたえ尽くすことのできない智慧
C 大乗広智 一切衆生を救う広大な智慧
D 無等無倫最上勝智 何物にも比べることのできない最もすぐれた智慧
と、記されています。
「阿弥陀仏の智慧(仏智)」はこのようにすぐれたものであり、散り乱れた心で勝手気ままな行いをする者であっても決して見捨てることのないのが阿弥陀さまのお心なのです。
ところで、「罪業深重」「散乱放逸」の者とは誰のことでしょうか。
親鸞聖人は、それは自分のことと申されています。
無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ
(罪を恥じる心がないこの身には、まことの心などないけれども、阿弥陀仏があらゆるものに回向してくださる名号であるから、その功徳はすべての世界に満ちわたっている「現代語版」より)
このようなお示しを頂く時、自分自身の有り様を見つめざるを得ないことです。罪業深重・散乱放逸のお恥ずかしい自分自身だからこそ苦しみ悩むことの多い私なのです。
そんな私を放っておくことができないとはたらき続けていてくださる阿弥陀さまですから、そのおはたらきを繰り返し聞かせて頂くことが、自分の安心となるのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏