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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

〒582-0021 大阪府柏原市国分本町5-6-19

TEL.072-977-3882

浄土真宗とは

今月の法話

2017年12月の法話
  「弥陀(みだ)の回向(えこう)の 御名(みな)なれば  
        功徳(くどく)は十方(じっぽう)に みちたまう」
(2017年 真宗教団連合「法語カレンダー」12月のことば)
      『無慚(むざん)無愧(むぎ)のこの身(み)にて
       まことのこころはなけれども
        弥陀(みだ)の回向(えこう)の 御名(みな)なれば 
        功徳(くどく)は十方(じっぽう)に みちたまう』

「罪を恥じる心がないこの身には、まことの心などないけれども、阿弥陀仏があらゆるものに回向してくださる名号であるから、その功徳はすべての世界に満ちわたっている」  
                    『三帖和讃(現代語版)』(本願寺出版社刊)より

 「無慚無愧」について、親鸞聖人はご自身が著わされた『教行信証』の中に、『涅槃経』の 文を引いて示してくださいます。

「慚はみずから罪を作らず、愧は他を教えて作さしめず。慚は内にみずから羞恥す、愧は発露して道に向かふ、慚は人に羞づ、愧は天に羞づ、これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生と為す。慚愧あるがゆへに、すなはちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるがゆへに、父母・兄弟・姉妹あることを説く」

 親鸞さまご自身は、みずから「無慚無愧のこの身であり、まことの心はない」と申されますように、仏のさとりに向かう心もなく、阿弥陀さまとはかけ離れた生き様をしているのが自分であると表明されています。

 このご和讃は、愚禿悲歎述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)(全部で16首)の中の4首目にだされています。前の3首は
       浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
       虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
(現代語訳)「浄土の真宗に帰依しているけれども、このわたしがまことの心をもつことなどあり得ない。嘘いつわりばかりのわが身であり、清らかな心などあるはずもない」

      外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ
      貪瞋・邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり
(現代語訳)「みなそれぞれ賢く善い行いに励んでいるかのように振る舞っているが、内心は貪りや怒り、いつわりばかりであり、その身には人を欺こうとする思いが満ちている」

      悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
      修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる
(現代語訳)「悪い本性を抑えることなどできるはずもない。その心はまるで蛇や蝎のようであり、たとえ善い行いをしても、煩悩の毒がまじっている。だから、その行いはいつわりの行と呼ばれている」

 厳しい言葉でご自身の本性をお示しになられます。阿弥陀さまのはたらきを信受された親鸞さまのお言葉は、厳しく私に迫ってきます。
 しかし、そんな自分であるからこそ、阿弥陀さまは絶対に捨てることはできない、必ず仏のさとりを開かせると、阿弥陀さまの功徳をすべておさめ入れた「南無阿弥陀仏」の「名号」となって、すべての世界にはたらいてくださってあると示してくださったのが今月の言葉です。

  阿弥陀さまのひかりを こころにあびて 
  きょうの日もやすらぎに みたされてゆく
  わけへだてない慈悲は 雨より多く 
  山のようにひろがり すべてをつつむ
  金樹銀樹瑠璃樹 美しく揺れて
  願いとどくときは 蓮の花が咲く 
                (仏教讃歌『ひかりあふれて』1番歌詞)

 阿弥陀さまはいつも一緒に居てくださいます。
南無阿弥陀仏