(2019年 真宗教団連合「法語カレンダー」6月のことば)
今月の言葉は、『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』という親鸞聖人のご著述からの引用です。
「尊号」とは親鸞聖人ご在世の当時にご本尊としてご安置された名号のことです。「真像」とは、祖師方(善導大師や法然聖人など浄土真宗伝統の祖師方)の肖像画のことです。そしてそれら尊号や画像の上下に書かれた経典などの讃文のことを「銘文」と言います。そして、この書物は本・末二巻に分かれています。6月の言葉は末巻の最初に出されている言葉です。
ここでは、源信和尚の『往生要集』の中の文を解説されています。
「我亦在彼 摂取之中 煩悩障眼 雖不能見 大悲無倦 常照我身
(われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつるにあたはずといえども、大悲、倦きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ)」【本願寺刊『尊号真像銘文』現代語版より】
この源信和尚の銘文を解釈されたところを私なりに現代語版を基に要約させて頂きます。
「私もまた阿弥陀さまの光明の中におさめ取られていますが、自分のもっている煩悩によってその光明を見ることができないのです。しかしながら、阿弥陀さまの大いなる慈悲のはたらきは、私たちを見捨てることなく何時でも照らし続けてくださっているのです。何ものにもさまたげられることのない光明は、信心の人を常にお照らしになるということです」(下線部が6月の言葉)
この源信和尚の『往生要集』のご文を基として、お正信偈には
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
と示され、そしてご和讃にも
煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり
と示され阿弥陀さまのおはたらきを讃嘆されています。
このように、阿弥陀さまは、常に私たちをお照らしくださっているということです。ところが、阿弥陀さまが常に照らされるのは「信心の人」だと示されています。
阿弥陀さまのご本願(仏説無量寿経の第18願)には、十方衆生に対しての誓いをたてられているわけですから、阿弥陀さまの救いの対象はいのちあるものすべてあると思います。
しかし、ここでは「信心の人」という限定された言い方をされています。それは、阿弥陀さまのおはたらきをそのまま受け入れている人を「信心の人」と言われているのだと思います。つまり、阿弥陀さまの「必ず救う」というおはたらきを、そのまま受け入れた人だけが、阿弥陀さまのお慈悲を感じることができるということではないかと思うのです。
阿弥陀さまのことを全く知らない方には、いくら阿弥陀さまのはたらきがあったとしても、それを感じていくことは無理なお話しです。そういう意味で、阿弥陀さまのはたらきを喜ぶ者はその喜びを他の人びとに伝えていくということが、大切なことになるのではないかと思います。
お念仏(南無阿弥陀仏)を大切にする生活を心がけたいものです。
南無阿弥陀仏