(2016年 真宗教団連合「法語カレンダー」6月のことば)
今月の言葉は「正信偈」の「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩(ゆいのうじょうしょうにょらいごう おうほうだいひぐぜいおん)」を意訳したものです。
この正信偈の御文の読み下しは、「ただよくつねに如来(にょらい)の号(みな)を称(しょう)して、大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩(おん)を報(ほう)ずべしといへり」です。
【浄土真宗聖典(註釈版)本願寺刊より】
それは《ただ常に阿弥陀仏の名号を称え、本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよいと述べられた》と『顕浄土真実教証文類(現代語版)』には、示されています。
今月の法語は4月5月の言葉に引き続き龍樹菩薩さまの説かれた阿弥陀さまのはたらきを示された言葉です。
「私達は、南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)と念仏して、阿弥陀さまのはたらき(めぐみ)に応えましょう」というお示しであると思います。
4月5月の法語で示されていますように、阿弥陀さまは、私達のことを必ず極楽浄土に生まれさせ仏の悟りを開かせるためにはたらいてくださっています。
親鸞さまは、龍樹さまを讃えられるご和讃を十首詠まれていますが、先月紹介いたしましたご和讃に引き続いて、
生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
と、詠まれています。
生死の苦海と申しますのは、迷いの苦しみの海ということです。それは、煩悩に振り回され続けて生きていく人間のすがたを示された言葉だと思います。そのような者を「凡夫(ぼんぶ)」と言うのでありましょう。凡夫とは、私自身のことであります。
本願寺から出ています『拝読 浄土真宗のみ教え』という本には
「凡夫」ということについて
「凡夫は命終わるその瞬間まで、煩悩から離れられないものを言う。すべてのことを私中心にみて争いをおこし、欲望・怒り・妬みに、心と身体(からだ)を悩ませ苦しみ続ける。」
と示されています。
「生死の苦海」つまり煩悩の苦しみの海の真っただ中にいる私、その海の底に沈み込んでしまっている私のことを救い上げ船に乗せて苦しみの海を渡らせ、お浄土にいたらせる。それが阿弥陀さまのはたらきなのです。
そのはたらき(恵み)に応えて称えるのが念仏(南無阿弥陀仏)です。
ところが、この念仏は私たち人間が作り上げた言葉ではありません。阿弥陀さまから頂いた言葉なのです。阿弥陀さまそのものなのです。
「念仏申すとは 私の人生のどんな時でも
あみださまと共に 生きていきます ということです」
という言葉を聞かせて頂いたことがあります。
私のことを絶対に裏切ることなく支え続けてくださる南無阿弥陀仏なのです。私の身も心も阿弥陀さまに思われ続けて来たのでした。
お念仏大切にしたいものです。
南無阿弥陀仏