(2016年 真宗教団連合「法語カレンダー」12月のことば)
今月の言葉は「正信偈」の「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説(どうぞくじしゅぐどうしんゆいかしんしこうそうせつ)」を意訳したものです。
この正信偈の御文の読み下しは、「道俗時衆(どうぞくじしゅ)ともに同心(どうしん)にただこの高僧(こうそう)の説(せつ)を信(しん)ずべし。」【『浄土真宗聖典(註釈版)本願寺刊』】です。
現代語版には《出家(しゅっけ)のものも在家(ざいけ)のものも今の世の人々はみなともに、ただこの高僧方(こうそうがた)の教えを仰いで信じるがよい》【『顕浄土真実教証文類(現代語版)本願寺刊』】と示されています。
今月の言葉は正信偈の結びです。
「出家在家を問わず、共に心を同じくして、ただこの高僧方(龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信和尚・源空聖人)の教説を信じましょう」という親鸞さまの正信偈の結びの言葉です。
阿弥陀如来の救いのはたらきは、すべての人々に及ぶものであることを示してくださった高僧方、私たちはその高僧方の教えをそのまま疑いなく信ずるべきであると親鸞さまはお示しくださっています。
高僧方の教えは、阿弥陀仏の本願のはたらきによってこそ私達は救われることを示してくださいました。親鸞さまは「五濁悪時の群生(ごじょくあくじのぐんじょう)」「いし・かわら・つぶての如くなるわれら」「煩悩成就の凡夫」「煩悩具足の凡夫」「極悪深重の衆生」などの表現で、私たちは自分の力では永遠に成仏することのない救われようのない人間であることをお示しになられ、そんな私たちに仏の悟りを開かせるため」「南無阿弥陀仏」の念仏となってはたらいてくださるのが阿弥陀さまであるとお教えくださいました。
先日、4歳上の先輩であり京都の伝道院で共に机を並べ学んだ法友であるO氏が急逝されました。本当に突然のことであり命とはこんなにもはかないものかということを改めて厳しく感じさせて頂いたことです。亡くなる寸前まで2日後に勤修される予定であった住職継職法要の準備されていたのですが、突然倒れられそのまま逝ってしまわれました。大動脈解離ということでありました。
38年前伝道院でご指導くださった藤澤量正先生は「死因」ということについて、「世間では○○の病気が原因で亡くなったとか、交通事故が原因で亡くなったとかいうが、それは原因ではない、縁である、因は生まれてきたということである」とお教えくださったことでした。
生まれた者は、生きている者は必ず死ぬのです。愛する人と必ず別れていくのです。それは自分が生きている限り必ず起こることです。それをそのまま受け入れることができるのが仏法なのだと思います。
1ヶ月前に当寺の報恩講の講師としてご出講くださったばかりです。38年前に縁あって知り合い、その後いろいろなことでお世話になり相談し語り合い酒を酌み交わした先輩です。悲しい、寂しい、何故死んだの?という思いは捨てられないのです。死にこだわらずにはおれないのです。しかし、そこに立ち止まっていたなら何時まで経っても悲しみを乗り越えられないというのも事実でしょう。理屈の上で分かったつもりでもどうにもならないのも私の姿なのです。時が経てばやがて忘れることが多い。だからその悲しみは時の流れで解決されていくという人もいますが、それは同様のことが起こるとまた同じことを繰り返すことになるので実際には解決とは言えないでしょう。
悲しみを乗り越えられない私、迷苦をかかえたままの私に対して、「そのままのあなたをずっと抱いています。絶対に離しません」と、はたらいてくださるのが阿弥陀さまです。その阿弥陀さまと常に一緒だと確認する言葉が「南無阿弥陀仏」なのです。ですから蓮如上人は「寝ても覚めてもいのちのあらん限りは称名念仏すべきもの也…」とお示しくださることです。
南無阿弥陀仏