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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

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浄土真宗とは

今月の法話

2017年2月の法話
「如来(にょらい)すなわち涅槃(ねはん)なり
             涅槃を仏性(ぶっしょう)となづけたり」
(2017年 真宗教団連合「法語カレンダー」2月のことば)
  如来すなわち涅槃なり  涅槃を仏性となづけたり
  凡地(ぼんじ)にしてはさとられず  安養(あんにょう)にいたりて証(しょう)すべし

(如来はすなわち涅槃である。この涅槃を仏性と申しあげる。凡夫(ぼんぶ)には、これをさとることができない。浄土に至ってはじめてさとることができる。
         『三帖和讃(さんじょょうわさん)(現代語版)』(本願寺出版社刊)より)

 今月の言葉は、上記の親鸞聖人の詠まれたご和讃の前半二句です。
 涅槃とは悟りの境地のこと言います。仏教の最終目的は、私が涅槃にいたることであり、成仏することです。
 2月15日はお釈迦さまの涅槃会(ねはんえ)です。悟りを開かれたお釈迦さまが亡くなられた日であると伝えられていますが、実際「お釈迦様が亡くなられた」とは言わないで、「入滅(にゅうめつ)された」とか「涅槃に入られた」という表現をします。
 それは、お釈迦さまという存在が全くなくなってもう何も無いということではなく、煩悩の宿る身体が無くなり本当の意味での悟りの仏と成られたということだと受け止めているからです。
 お釈迦さまは、真の仏陀になられ、無量寿のいのちを生きられ、今も私たちに仏としてはたらいてくださっていると味わうことが出きるのです。

 そのお釈迦さまが勧めてくださった阿弥陀仏の救いに遇われた親鸞さまが、詩の形で親しみやすく口ずさみやすく表してくださったのがご和讃だと伺いたいと思っています。

 さて、このご和讃は『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』というお経の内容から詠まれたものです。
 そのお経には「如来すなはち涅槃なり、涅槃はすはちこれ無尽なり、無尽はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ決定なり、決定はすなはちこれ阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)なり」と説かれています。
 『現代語版』には「如来はすなわち涅槃である。涅槃は尽きることのないものである。尽きることのないものすなわち仏性である。仏性はすなわち決定である。決定はすなわちこの上ないさとりである」
 このような涅槃経に説かれてあることを、私たちにとって分かりやすく和讃として示してくださったと申し上げていいと思います。
 「如来」という言葉も「涅槃」「無尽」「仏性」「決定」「阿耨多羅三藐三菩提」という言葉の本質の意味は同じであるという事をお示しくださったものです。

 ところで、私は「仏性」という言葉を「仏になる可能性」ということだけで思い込んできました。今回あらためてこの言葉に出あわさせて頂き、「如来性・覚性・仏の本性・仏の悟りそのものの性質・仏になる可能性等」の言葉の意味があることを知らされたことでした。
自分の思い込みだけに頼ってしまいがちな私の姿に気付かされたことです。
 
 さて仏教徒にとっての最終目標は成仏です。つまり涅槃に入ることですが、それが、今生きているこの世界(凡地・娑婆世界など)にいる限り無理である事を示され、阿弥陀さまに抱かれて極楽浄土に生まれさせていただき悟りの仏と成ることをお示してくださったのが、このご和讃なのです。
 お念仏申すこと、ご和讃を口ずさむことを心がけたいものです。
南無阿弥陀仏