(2017年 真宗教団連合「法語カレンダー」4月のことば)
『たとひ大千(だいせん)世(せ)界(かい)に みてらん火(ひ)をもすぎゆきて
仏(ぶつ)の御名(みな)をきくひとは ながく不退(ふたい)にかなうなり』
「たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、阿弥陀仏の名号を
聞き信じる人は、決して迷いの世界にもどることのない身となるのである」
『三帖和讃(現代語版)』(本願寺出版社刊)より
今月の言葉は、上の親鸞聖人の詠まれたご和讃の後半二句(下線部)です。
このご和讃の意味をお示しくださるのですが、この一首だけではよくわからないという気がします。
親鸞聖人はこのご和讃の前に
『阿弥陀仏(あみだぶつ)の御名(みな)をきき 歓喜(かんぎ)讃仰(さんごう)せしむれば
功徳(くどく)の宝(ほう)を具足(ぐそく)して 一念大利(いちねんだいり)無上なり』
「阿弥陀仏の名号を聞き信じ、喜んでほめたたえるものは大いなる功徳を身にそなえ、
浄土に往生してさとりを開くというこの上ない利益を得るのである」
『三帖和讃(現代語版)』(本願寺出版社刊)より
と、『仏説無量寿経』をもととしてこの二首を詠まれています。
ここで、私たちが「さとり」というこの上ない利益を得ることができるのは、阿弥陀さまの名号「南無阿弥陀仏」のはたらきによることを示してくださっています。
世界中が火の海になるというのは、自分が火に囲まれて全く逃げ場がない状況を表しているのでありましょう。それを自分の欲望とか煩悩を火に譬えてあるのだと思います。
そのような自分の状況におもねることなく負けることなくさとりを目指して突き進み、阿弥陀さまの「お前を絶対に捨てない必ず救う」というおはたらきをそのまま聞き信じていくものは、さとりの世界に入ることが決まっている不退転の位に入るのであるということなのかと思うのですが、そうしますと自分が受け取っている浄土真宗の教えとは違うような気がするからです。
何故かと申しますと、私は自分自身が火にひるむことなく立ち向かいつき進んで行けるようには思えないのです。自らの煩悩に立ち向かい欲望を制御し続けることができるかと言えば、それは無理というのが本当です。
「私達は阿弥陀さまの一人ばたらきで救われる」とよく聞かせて頂くことです。
阿弥陀さまは、私たち一人ひとりのことをすべて見抜いて、はたらいてくださっている方です。実は、私が何々のことができないからダメというような条件は一切つけておられません。私のすべてを見抜いて救わずにはおれないとはたらいてくださっているのです。
「南無阿弥陀仏」は「あなたを必ず救うよ。仏のさとりを開かせるよ」の阿弥陀さまからの呼びかけ・お約束です。ですから、私どもは「南無阿弥陀仏」のいわれをそのまま聞かせて頂ことが大切であり、そんな阿弥陀さまのおはたらきを思いお念仏申すこと大切にしていきたいものです。
南無阿弥陀仏