(2017年 真宗教団連合「法語カレンダー」5月のことば)
『如来すなはち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり
凡地にしてはさとられず 安養にいたりてさとるべし』
(「如来すなわち涅槃である。この涅槃を仏性と申しあげる。凡夫にはこれをさとることができない。浄土に至ってはじめてさとることができる」『三帖和讃(現代語版)』(本願寺出版社刊)より)
『信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり』
(「信心を得て喜ぶ人のことを、如来と等しいと説かれている。大いなる信心は仏性である。仏性はすなわち如来である」『三帖和讃(現代語版)』(本願寺出版社刊)より)
今月の言葉は、上のご和讃の下線部になりますが、このご和讃の一首前に読まれているのが「如来すなはち涅槃なり……」のご和讃です。
この二首のご和讃の中で使われる大切な言葉「如来・涅槃・仏性・大信心」の意味を『浄土真宗辞典』(本願寺刊)にたずね再確認してみたいと思います。
※ 如来=真如より現われ来った者、あるいは真如をさとった者の意で仏のこと
※ 涅槃=さとりの境地のこと。すべての煩悩の火が完全に吹き消された境地のことで、
仏教の最終的実践目的は涅槃に至ることとされる
※ 仏性=仏の本性、仏のさとりそのものの性質。また、仏になる可能性をいう。
※ 大信心=他力信心のこと。衆生を涅槃のさとりに至らせるすぐれた徳を持っていることか ら、このようにいう。
信心は仏の教えを信じて疑わない心、仏道の根幹をなすもので、この心をもとに 成仏への道が開かれる。……浄土教においては、阿弥陀仏の本願を信じて疑わな い心とする。
私どもが、必ず悟りの仏と成ることができるのは、阿弥陀さまの一人働きによるものであることを示してくださったのが、この二首のご和讃であると思います。
如来、涅槃、仏性ということは、仏さまの側で語られることであり、その仏さまの世界や
はたらきを疑いなく信じるのは私たち人間の側で語られるものだという考えが普通一般的であるように思います。
ところが、親鸞聖人は信心も阿弥陀仏より回向されるのだと教えてくださいます。
信心とは、阿弥陀さまの心を疑わない私の心であると辞典には示してくださっていますが、私は、自分の心が自分の都合によりコロコロ変わることを知っています。
ですから、阿弥陀さまの心を疑うつもりはないけれど、条件が整えば、阿弥陀さまのお心に逆らうことばかりし、自分の都合のよい方へ心を作り上げていくのではないかと思うのです。そんな私が自分で作り上げる信心は、本当に阿弥陀さまのお心にかなった信心であるのかどうかとても怪しいことです。
阿弥陀さまはそんな私のすがたを見抜いて、信心を私に与えようとはたらいてくださるのです。そのはたらきは、慈愛に満ちた親のはたらきによく譬えられます。たとえば、愛情いっぱいで育てられた子供は、その親のことを疑うことはないでしょう。子どもが、親を信頼する心は、親のはたらきによって作り上げられたものです。
阿弥陀さまも私達を慈愛に満ちた心で包んでくださっています。そのはたらきを縁あるごとに聞かせて頂くことが大切だと思います。
「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」と口に称えて、いつでもどこでも私のことを思い続けてくださってある阿弥陀さまのおはたらきを味あわせて頂きたいものです。
南無阿弥陀仏