(2017年 真宗教団連合「法語カレンダー」7月のことば)
『本願力(ほんがんりき)にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし』
「本願のはたらきに出会ったものは、むなしく迷いの世界にとどまることがない。あらゆる功徳をそなえた名号は宝の海のようにみちわたり、濁った煩悩の水であっても何の分け隔てもない」『三帖和讃(現代語版)』(本願寺出版社刊)より)
今月の言葉は、上のご和讃の下線部になります。
天親菩薩さまの著わされた『浄土論』という書物に
「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」
(仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海をまんぞくせしむ〈読み下し文は『浄土真宗聖典註釈版』による〉)というご文があります。それによって詠まれたのが文頭のご和讃です。
『仏説無量寿経』に阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時にたてられた48の願い(四十八願)が説かれています。その四十八願を完成成就するために、法蔵菩薩は兆載永劫(ちょうさいようごう)という極めて長い時間修行されその願いをすべて成就されて阿弥陀仏と成られました。そしてこの修行で得られた功徳をすべておさめ入れられたのが、私たちが称えている「念仏=南無阿弥陀仏」(名号)です。
そして、四十八願の第18番目の願い(第十八願)が最も根本となる願い「本願」であると親鸞聖人はお示しくださいました。
第十八願は「いのちあるものすべてを南無阿弥陀仏(名号)のはたらきで必ず極楽浄土に生まれさせ、仏のさとりを開かせる。もし私の国(極楽浄土)に生まれさせることができなければ、私はさとりの仏と成らない」というものです。
先の『浄土論』のご文の言葉は、私の在り様に対する阿弥陀さまのはたらきをお示しくださっています。
親鸞さまの著わされた『一念多念証文』というお書物の「現代語版」を拠り所として自分なりに訳させて頂きます。
阿弥陀さまは私たち一人ひとりに対して、ずっとはたらき続けておられます。阿弥陀さまのはたらきを知り出遇った人、つまり、阿弥陀さまのはたらきをそのまま信じ受け入れ頼りにしていく人は、むなしく時を過ごすことはない。それは、阿弥陀さまのはたらきで、阿弥陀さまを頼りに生き死んでいこうとする人は、迷いの世界を生まれかわり死に変わりすることはなく、必ず極楽浄土に生まれ仏と成って活動するからです。つまり、私たちは仏と成るべきいのちを生きているということになるからです。
今月の言葉「功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」は、
阿弥陀さまのあらゆる功徳が満ちあふれている宝の海のように、本願のはたらきを信じ喜ぶ人の心のうちには仏の功徳が満ちあふれることを表しているのだと思います。
海によごれた川の水が流れ込んでも海の水に同化され浄化されるように、私の煩悩の濁水も仏の功徳に包まれ、苦しみの因とはならないということなのです。
いつも阿弥陀さまの功徳の中にいる私です。阿弥陀さまのはたらきを忘れないためにも縁あるごとにお念仏を称え、どう生きることが阿弥陀さまのはたらきに応えることか考えていきたいものです。
南無阿弥陀仏