本文へスキップ

浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

〒582-0021 大阪府柏原市国分本町5-6-19

TEL.072-977-3882

浄土真宗とは

今月の法話

2017年10月の法話
  「ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏を となうべし」
(2017年 真宗教団連合「法語カレンダー」10月のことば)
 『弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな
       ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし

 「阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を深く信ずる人は、みなともに寝ても覚めても変わりなく 南無阿弥陀仏の名号を称えるがよい。」 『三帖和讃(現代語版)』(本願寺出版社刊)より

 今月の言葉は、上のご和讃の下線部になります。このご和讃は、『正像末和讃』の中の一首です。
 上の現代語版に示されますように、阿弥陀仏の「すべてのいのちあるものを救い取ろう」という大いなる慈悲の心から出た願いを、そのまま聞き疑うことなく信じる者は、何時でも何処でも変わりなくお念仏(南無阿弥陀仏)を称えましょうと、親鸞さまがお勧めになっている詩です。

 阿弥陀さまの願いをそのまま信じる心が浄土真宗で言う信心ですが、その信心は阿弥陀さまの願いを自分で聞き、自分で納得して理解し、受け入れ信じるというようなものではありません。
 7月の法話でも書かせて頂きましたように、親鸞聖人は、信心は阿弥陀さまの心です。私たちは、その心を頂き私の信心となるのですと、お示しくださっています。
 何故なら阿弥陀さまは、私が阿弥陀さまの教えを聞き始めるよりもずっと前から、私のことをすべてわかり、私に対してはたらいてくださっていたのです。そのようなはたらきは、すべての人々に向けられたものです。ですから、そんなはたらきを喜ばれた方々によって、私が阿弥陀さまのはたらきを聞かせて頂くことになったと考えますと、私が阿弥陀さまのことを喜ぶようになったのは自分の力ではないことがわかります。
 阿弥陀さまのはたらきが先にあって、その心で包まれている私なのです。
 
 阿弥陀さまのお慈悲の心に包まれていることを喜ぶなら、何時でも「南無阿弥陀仏」を称えましょうと親鸞さまは申されています。
 教行信証の信の巻きには「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり(この真実の信心には、必ず名号を称えるというはたらきがそなわっている。しかしながら、名号を称えていても必ずしも他力回向の信心がそなわっているとは限らない『教行信証現代語版』より)」と示されてあります。

 このようなお示しを頂く時、自分自身の有り様を見つめ直すということも大切なことであろうと思います。しかし、南無阿弥陀仏を称えることの意味「私のために、私がどんな心持であろうと、絶対に見捨てることなく常に私を安心に導こうとはたらき続けてくださっている阿弥陀さまのことを讃え、お礼申し上げているのが称名念仏である」と、受け止めることの方が、今の私にとって、大切なことであると親鸞さまはお示しくださっているのではないかと思うのです。
 それは、私そして人々を評価し攻めていく姿ではなく、安心して生きていくことの道を念仏する中に開かせて頂けるということではないでしょうか。
南無阿弥陀仏