(2017年 真宗教団連合「法語カレンダー」11月のことば)
『釈迦(しゃか)弥陀(みだ)の慈悲(じひ)よりぞ 願作仏心(がんさぶっしん)はえしめたる
信心(しんじん)の智慧(ちえ)にいりてこそ 仏恩(ぶっとん)報(ほう)ずる身(み)とはなれ』
「釈尊と阿弥陀仏の慈悲により、仏になろうと願う心、すなわち願作仏心を得させて
いただいた。信心の智慧を得ることで、初めて阿弥陀仏のご恩に報いる身となるのである」
『三帖和讃(現代語版)』(本願寺出版社刊)より
今月の言葉は、上のご和讃の下線部になります。このご和讃は、『正像末和讃』の中の一首です。
上の現代語版に示されますように、お釈迦さまと阿弥陀さまの慈悲のはたらきで、私たちに「仏のさとりを開きたい」という願いが起こると言われています。阿弥陀さまの願いは、私たちに絶対にくずれることのない、壊れることのない幸せを与えたいというものです。
私たち人間が作りだすもの、目に見える形あるものは、いずれは必ず壊れなくなっていきます。阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震、毎年のように起こっている大水害など自然災害とよばれるもの、私達人間が引き起こす多くの事故や事件によってどれだけの多くの方々が亡くなられたり病気になられたり、その家族や関係者の方々もまた苦しみ悲しみを抱えて生きておられることと思います。
いつ何が起こるかわからない、必ず死んでいかなければならない命を抱えて生きている私なのです。しかし、そのことにはあまり目を向けようとは思いません。それよりも、自分の欲望を満足させてもらえるような楽しいことばかりを追い求めているのが私の本当の姿だと思います。その欲望が少しでも満たされると幸せを感じるのです。しかし、その幸せがずっと続くものではないことは誰の眼にも明らかなのですが、そういう自己を満足させるために生きているのが私なのだと思います。
そんな私に「本当の幸せを与えたい」「絶対安心の仏のさとりを開かせたい」と願われているのが阿弥陀さまという方なのです。そしてその阿弥陀さまの願いとはたらきを教えてくださったのがお釈迦さまなのです。ですから、浄土真宗では阿弥陀さまのことを救いの主「救主(きゅうしゅ)」、お釈迦さまのことを教えの主「教主(きょうしゅ)」と申されています。
阿弥陀さまの願いをお釈迦さまがお教えくださった、それは、私たちの多くの苦しみ悩みの因を抱えながらそのことにさえ気付かず、いや気付いていたとしてもそこに眼を向けず、自分の欲望を満足させるためだけに生きる私に対して「どうか阿弥陀さまの願い・はたらきを聞いてください」と、お釈迦さまが説いてくださったのが『浄土三部経』なのです。
私のことを捨ててはおけない阿弥陀さま・お釈迦さまなのです。その願いを聞きそのまま受けとる中に「仏のさとりのことを思う」心が芽生えてくるということなのだと思います。
今月の言葉は、私がどんな人間であっても絶対に捨てない、必ず仏のさとりを開かせるという阿弥陀さまの心を聞かせて頂き阿弥陀さまのはたらきに我が身をまかせることで私が阿弥陀さまにお礼を申しあげる存在になるということをしめしてくださったものです。そのお礼の言葉が「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。
以前に大阪教区からだされた『心に響く言葉』の中に
「念仏申すとは 私の人生どんな時でも あみださまと共に 生きていますということです」
「うれしい時も 悲しい時も 淋しい時も 腹が立った時も
お念仏申して生きていきましょう」
という言葉が出されていました。阿弥陀さまにお礼を申しあげて生きていく、それが生きる余裕となるのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏