(2018年 真宗教団連合「法語カレンダー」2月のことば)
今月の法語は、親鸞聖人が、関東のご門弟に対して出されたお手紙(「ご消息」)の中の言葉です。
『真実信心の行は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀則を待たず。』(下線部が今月の言葉)
本願寺から出されています「現代語版」には、以下のように意訳されています。
『真実の信心を得た人は、阿弥陀仏が摂(おさ)め取ってお捨てにならないので正定聚(しょうじょうじゅ)の位に定まっています。だから、臨終の時まで待つ必要もありませんし、来迎を頼りにする必要もありません。信心が定まるそのときに往生もまた定まるのです。来迎のための儀式を当てにする必要はありません。』(下線部が今月の言葉)
浄土真宗でいわれます「真実信心」とは、阿弥陀さまが「私たち一人ひとりを必ず浄土に生まれさせる」という誓いをたてはたらいてくださっていることをそのまま聞いて、阿弥陀さまにおまかせする疑いの無い心です。それは、私たち自身が作り上げる心ではなく、阿弥陀さまのはたらきで私たちが頂く心です。
その信心を頂かれた方は、必ずさとりを開いて仏になることが正(まさ)しく定まった位(くらい)に入るので、浄土往生することが決まっているのです。ですから、臨終の時に阿弥陀仏が来迎されるように、臨終行儀という儀式する必要はないということです。
信心をいただいだとき、必ずお浄土に往生することが定まるのです。
ですから、蓮如上人は、御文章に「聖人一流の御勧化のおもむきは信心をもって本とせられそうろう(親鸞聖人が生涯をかけて私に教えておられるのは阿弥陀さまから信心を頂きなさいということです)」と、お示しくださいます。
ところで、信心を頂くことにより往生成仏が決定するのですから、信心頂いたらあとは何もせず自分の好きに生きていたらいいと私などは考えてしまいます。本当にそうでしょうか?
親鸞さまのご和讃を集められた『三帖和讃』の冠頭のご和讃です。
弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり
現代語訳:真実の信心を得て阿弥陀仏の名号を称える身となった人は、つねに本願を心に思 いおこし、仏のご恩に報いようとするのである
「信心」は阿弥陀さまのお心です。阿弥陀さまはすべてのいのちあるものを救いたい、本当の安心を与えたいとはたらいておられる仏さまです。そのお心を頂くのですから、上のご和讃にお示しくださいますように、阿弥陀さまの願いを聞かせていただきながら、いのちの尊さに気づかされ、阿弥陀さまのご恩に報いる生き方をしていこうとすることが大切なことだと知らされます。
自分の生活を見ると報謝・感謝の生活とは程遠くお恥ずかしいことばかりではあります。
そのような恥ずかし自分を教えられ、私が生きることができるように支えてくださっている阿弥陀さま・親鸞さま・ご縁のある多くの方々のおはたらきを頂いていることを大切にしたいと思います。
南無阿弥陀仏