(2018年 真宗教団連合「法語カレンダー7月のことば)
今月の法語は親鸞聖人の『浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)』という書物の中の一文です。
この書物について『浄土文類聚鈔 現代語版』(本願寺刊)には以下のように説明されています(本文に一部付け足しをしたり抹消したりしています)。
【 本書(浄土文類聚鈔)は、浄土真宗の根本聖典である『顕浄土真実教行証文類(教行信 証)』〔広文類(こうもんるい)〕に対して『略文類(りゃくもんるい)』とも呼ばれる。 それは『教行信証』が、仏典だけでなく他の典籍までも引用して、教・行・信・証・真仏土(しんぶつど)・化身土(けしんど)の六巻に分けて、浄土真宗の教義体系を広く明かしてい るのに対して、本書は、浄土三部経と龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)・天親菩薩(てんじん ぼさつ)・曇鸞大師(どんらんだいし)・善導大師(ぜんどうだいし)の四師の論釈を引く のみで、真仏土・化身土の内容がなく、簡略化されていることによる。しかし内容は、教・ 行・証の三法を中心にその基本的な意味を明らかにし、また往相(おうそう)・還相(げん そう)についても要点を示し、更に三心一心を論じて、浄土三部経の教説は一致して本願力 回向(ほんがんりきえこう)の信心を勧めていると述べられて、いわば『教行信証』と同じ く浄土真宗の要義が記されている。】
さて、今月の法語は、私たちがどのように極楽浄土に生まれて往くのか(往相)ということを示された言葉といってよいと思います。
今月の法語の一文が出される前の文章から『現代語版』で紹介させて頂きます。
【二つには信楽(しんぎょう)について、この心はすなわち、真実心を信楽の体(たい)と するのである。ところが、煩悩に縛られ濁りに満ちた世に生きる愚かな凡夫には、清らかな 信心がなく、真実の信心がない。だから真実の功徳にあうことができず、清らかな信楽を得 ることができないのである。そこで『観経疏(かんぎょうしょ)』のおこころを考えてみる と、貪りの心は常に善い心を汚し、怒りの心はその功徳を焼いてしまう。たとえ身を苦しめ 心を砕いて、昼夜を問うことなく、ちょうど頭についた火を必死に払い消すように懸命に勤 め励んでも、それはすべて毒のまじった善といい、また、いつわりの行というのであり、真 実の行とはいわないのである。この毒のまじった善を回向しても、阿弥陀仏の浄土に往生す ることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、ほんの一瞬 の間に至るまでも、その身・口・意の三業(さんごう)に修められた行はみな、真実心にお いてなされたからであり、だからどのような疑いの心もまじることがない。阿弥陀仏はその 清らかな真実の信楽を、すべての人々にお与えになるのである。
(※『観経疏』は善導大師の著作)】
引用がたいへん長くなりましたが、下線部が7月の法語の現代語訳です。
私たち人間は煩悩を完全に滅してしまうことはできないのです。その人間の心で、自分が努力を重ねて清らかな心を持っているから、阿弥陀さまは捨てることがないと思っているとしたらそれは大きな間違いなのです。煩悩を常に持ち続けているのが私たちです。その煩悩を毒に譬えられたのです。煩悩という毒の雑じった心で作り上げた善は極楽浄土に生まれる善根(ぜんごん)にはならないことを、お示しくださったことです。
阿弥陀さまのお浄土に生まれさせて頂くのは、私の力ではありません。阿弥陀さまの私たちをお浄土に生まれさせたいという願いのはたらきによるものなのです。
阿弥陀さまのおはたらきをそのままいただきましょう。
南無阿弥陀仏